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黒木のなんでも掲示板2 (0026)

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Id: #b20000703211945  (reply, thread)
Date: Mon Jul 03 21:19:45 2000
In-Reply-To: b0026.html#b20000703143714
Name: 江副
Subject: 八紘一宇、あるいは、「宇宙は一家、ボーグみな兄弟」(笑)

伊勢田さんが下で書かれていることにおおむね賛同なので、蛇足かも知れませんが。

長谷川本の群淘汰否定の説明は、個体識別に関する記述以外はごく標準的なものだと思います。
牧野さんは「長谷川本の記述が要領を得ないからといって群淘汰が否定できなくなるとかそんなことはない」と書いておられるので、この本以外に群淘汰を否定する説明をご存じなのだと思いますが、それらの説明と長谷川本の記述とが本質的に違うと思われる点を挙げていただけないでしょうか?

山形さんへ
「群淘汰と血縁淘汰は区別できるか?」というご質問ですが、実ははっきり区別出来ません。「群」の範囲が定まっていないからです。
血縁淘汰は(60年代以前の素朴な議論ではなく、個体淘汰によって新しく基礎づけられたところの)群淘汰に包含されるとする研究者も少なからずいます。 が、血縁淘汰による利他行動の範囲は(一部の社会性昆虫を除き)非常に狭いと考えられているので、長谷川本の文脈におけるような一般的な群淘汰の議論にはふさわしくない、と思いました。あくまで「程度の問題」です(といっても、定量的な議論が無意味なほど程度の違う話、です)。
だから、血縁淘汰の範囲を、
人間だってライオンやオオカミやゾウリムシにくらべれば、みんな共通した遺伝子を持っていて血縁淘汰と同じような議論ができそうな気もするし
というところまで拡げるのは「はるかに」行き過ぎです(「人類みな兄弟」というフレーズを思い出す・・・)。
いくら共通した遺伝子を持っていても、その遺伝子が利他的な行動に関係していなくては意味がありません。しかし、ある程度以上大きい集団の中では、たとえ全個体が集団全体のためにはたらく「博愛的な」遺伝子を共通に持っていたとしても、そのうちに利己的な突然変異(またはより近い血縁者の利益のためにはたらく「身内びいき」な突然変異)が出現し、短い間に集団全体を占めてしまうでしょう。
Id: #b20000703180148  (reply, thread)
Date: Mon Jul 03 18:01:48 2000
In-Reply-To: b0026.html#b20000703143714
Name: 伊勢田
Subject: 非典型的な群淘汰というものがあると主張した覚えはないですが

いろいろ言いたいことはありますが、とりあえずひとつだけ。
伊勢田さんの議論と長谷川本のもともとの議論に共通する 問題 として、そこで否定されているのが、「異なる遺伝子 型を持った集団どうしの 適応度の差(p 76, l 3)」が進化の原因であるという主張では ないということ があります。ところが、長谷川本の主張を最大限救うとすれば、こ の主張がここで著者が 否定したい「群淘汰」です。
長谷川さんの本にしても、わたしにしても、 集団同士の適応度の差によって淘汰が働くかどうか、という問いを まったくの前提なしに議論しているわけではなく、「現在われわれに わかっている遺伝のメカニズムなどに基づいてそうした淘汰がはたらく シナリオを考えられるか」ということが問題になっているわけです。 そして、今われわれに分かっている遺伝のメカニズムはあくまで個体 の生存と繁殖の成功に束縛されていますから、もし群淘汰が成立すると 主張したいなら、この個体にしばられた遺伝メカニズムにもかかわらず 群淘汰プロセスが成り立つ、と言わなくてはならないわけです。

この観点から見て、群淘汰の問題点は、「個体にとっては不利だが群全体にとっては有利」 な遺伝子はこの遺伝メカニズムによっては維持されない、という点にあり ます(その理由は遺伝的侵入が防ぎようがないからで、それは長谷川さん たちの本に説明してあるとおりです)。ある世代におけるある個体が成功すれば その遺伝型は次の世代におおむね正確につたえられるわけですが、ある世代 におけるある群が成功したとしても、その成功が個体の犠牲の上になりたって いる場合、その群の遺伝子型は次の世代で維持されないのです。(そうした 犠牲の上になりたたない成功なら、その成功は個体の成功に還元可能で、群 淘汰は問題になりません。)ええと、これによってまきのさんが言う「ここで 著者が否定したい「群淘汰」」がまさに否定されているというのは分かりますか?

ふつうならここで「従って群淘汰は成立しない。以上」と言って次の話題 にうつるところなわけですが、なぜか長谷川さんたちはそうしないで、個体識別 の話を持ち出します。これはおそらく、「遺伝的侵入を防ぐための 個体識別」という新手の装置を持ち込むことで群の遺伝型がきちんと継承 されるようにできるのではないか、という反論を考慮してのことです。 わたしが議論したのは(そして長谷川さんたちがおそらく論じようとして いたのは)そういう装置はわれわれが知っている遺伝のメカニズムの上では 働きそうにない、ということです。と、ここまで書いたらなぜ私の書いた話が 「ここで著者が否定したい「群淘汰」」と関係があるか理解いただけるでしょうか?


Id: #b20000703143714  (reply, thread)
Date: Mon Jul 03 14:37:14 2000
In-Reply-To: b0026.html#b20000703014716
Name: まきの
Subject: じゃあ、非典型的なのはどうしてくれるのか?

という問題が今度はでてくるだけなので、こなみさんの御意見には全く同意で きませんが、まあ、そもそも伊勢田さんの議論は長谷川本の良くわからない議 論をウルトラ拡張解釈したものなので、それを議論してもしょうがないような 気もします。でも、まあ、そういうメタなことをいってもまたしょうがないですね。

以下、結局前に書いたのの繰り返しというか言い換えでしかありませんが、 本質的な点かもしれないのでちょっときちんと書いてみます。

伊勢田さんの議論と長谷川本のもともとの議論に共通する問題 として、そこで否定されているのが、「異なる遺伝子型を持った集団どうしの 適応度の差(p 76, l 3)」が進化の原因であるという主張ではないということ があります。ところが、長谷川本の主張を最大限救うとすれば、この主張がここで著者が 否定したい「群淘汰」です。

しかし、例えば伊勢田さんの議論が実際に否定しようとしているのは

ただのり戦略をとる個体を周囲の個体が見分けて「懲罰」する
という個体の戦略が進化的に安定であり得るということです。これは、上の 「群淘汰」とは全くなんの関係もありません。しかも、否定する議論の前提になっ ているのは、個体の適応度が進化の原因であるという仮定です。つまり、はじ めから群淘汰はないという前提から出発して、群淘汰とは無関係な現象がある かどうかを議論しているわけで、2重に無意味な議論です。しかも、その議論 が、定量的な根拠がない思いつきに過ぎないものですから、3重に無意味とい うことになります。

あ、そうそう、 p. 184 を見ると、n人ゲームで協力行動が進化するかどうか は「なかなか難しい問題」とありますね。これはつまり伊勢田さんの議論や p. 77 での議論のようなものがなり立つかどうかは難しい問題であると書いて あるわけです。

山形さん、

とある数理生態学が専門の方から聞いたところでは、要するにそのへんはまだ 理論家の間でも論争があるところであるということでした。ただ、 遺伝子/個体レベルで進化が決まっているかどうかということ自体についての、 私が上に書いたような意味での群淘汰があるかどうかという論争ではも ちろんなくて、基本的な枠組は遺伝子/個体レベルとして個別のいろんな利他 的行動をどのように統一的に理解できるか?という議論であると。 なお、そのへんは長谷川本でも p. 86 の最後に少し触れられています(これ も教えてもらったんですが、、、)。

クーンの用語を使えば、群淘汰か個体の適応度かという論争はパラダイム間の 論争、つまりは異常科学ということになるわけですが、現在の利他行動等に関 する議論は個体の適応度というパラダイムの適用範囲を広げようとするもので、 通常科学の枠内のものというところでしょう。


Id: #b20000703115031  (reply, thread)
Date: Mon Jul 03 11:50:31 2000
In-Reply-To: b0026.html#b20000630131309
Name: 山形
Subject: 群と血縁

> 血縁淘汰による利他行動も、集団全体に較べて範囲が非常に狭いので、ここでの議論の外です。

うーん。江副さんの上でいなば氏も書いているけれど、ここがぼくのよくわかっていないところだな。 なぜ議論の外になるんでしょうか。種とかいう概念からだんだん「群」の範囲をせばめてきて、血縁集団というもの までくると急に話が変わるというのが解せないのです。結局、群淘汰と血縁淘汰を決定的にわける 一線ってなんなんでしょう。

群淘汰の「群」というのはとってもあいまいである。血縁は、同じ遺伝子を持った連中として はっきり定義できる、というような気もするけれど、これもわかるようなわかんないような。 ESSを使った血縁淘汰の説明は、まあ理解できるように思うんですが、人間だってライオン やオオカミやゾウリムシにくらべれば、みんな共通した遺伝子を持っていて血縁淘汰と 同じような議論ができそうな気もするし。血縁淘汰というのは、群淘汰の特殊な一例と 考えていいんでしょうか、決定的にちがうものと考えるべきなんでしょうか。


Id: #b20000703014716  (reply, thread)
Date: Mon Jul 03 01:47:16 2000
In-Reply-To: b0026.html#b20000702185142
Name: こなみ
Subject: ないものに言及することは変?

10日ほど留守していて,昨日帰ってきたのでちょっと追いきれてないのですが。

まきのさんの「群淘汰というものがないとすればないものに典型的も非典型的もないわけで」という反論はむしろ おかしいと思います。群淘汰という概念そのものはちゃんと規定できるわけで, その規定で理解できるのではないかという現象を人々は議論してしてきたわけでしょう。 しかしよく調べて見るそれはどうもありそうもないという流れですよね。

群淘汰とはそもそも何かということをきちんと理解しなければ, それがあり得るのかそれともないのかを議論することは不可能なのであって, 伊勢田さんが,群淘汰という概念を用いることができるであろう典型的な事例というのを 想定して議論していることは,まったく問題はないし,むしろ正当だと思います。


Id: #b20000702185142  (reply, thread)
Date: Sun Jul 02 18:51:42 2000
In-Reply-To: b0026.html#b20000702142154
Name: まきの
Subject: b0026.html#b20000702142154

もちろん、長谷川本の記述が要領を得ないからといって群淘汰が否定できなくなるとかそんなことはないわけですが、伊勢田さんの議論はちょっと感心できないです。というのは、群淘汰というものがないとすればないものに典型的も非典型的もないわけで、そういうよくわからない区別を導入したうえで否定できるほうだけを否定するというのはなんだかよくわからないとしかいいようがない。

稲葉さんが書かれていたように、基本的な論点は「種」が進化の単位であるのではなくて個体というか遺伝子が単位であるということでしょう。その前提から見かけ上「群淘汰」であるようにみえる現象が出てきたとしても、それが個体レベルでの適応度から理解できるかぎり別に問題ではないはずです。理論的には、群淘汰という考え方を否定するということと、群淘汰であるようにみえる現象を否定するというのは全然違うことなのに、それが曖昧になっているのが問題じゃないかと思います。

なんて偉そうな口を全く非専門家の私がたたいていいのか?とは思わなくもないのですが、、、

あ、ちなみに、ここに Skeptic Magazine に載ったドー キンスのインタビューというのがありますが、ここでは、

Skeptic: Do you think that group fitness is a meaningful concept in evolutionary biology? If so, does it play a role in discussions of evolution and morality?
Dawkins: I think it's logically meaningful, but I don't think it plays a role in evolution in the wild and therefore it doesn't play a role in anything else. I think it's of no importance.

と、こんな感じになってます。
Id: #b20000702142154  (reply, thread)
Date: Sun Jul 02 14:21:54 2000
In-Reply-To: b0026.html#b20000630142654
Name: 伊勢田哲治
Subject: 群淘汰と個体識別

その『進化と人間行動』の群淘汰に関する問題の箇所読んでみました。 ええと、群淘汰に関するスタンダードな(教科書的な)反論は すでに問題の77ページの最後のパラグラフの前で終わっているので、 ここの話如何で群淘汰が否定できなくなるとかそういうことはない と思います。いわば、サービスで付け足した部分にまきのさんが ひっかかってらっしゃるわけです。

群淘汰が問題になる典型的事例というのは、 レミングが「群のため」に集団自殺するのにせよ、鳥が「群のため」 に卵の数を自主規制するのにせよ、 「群そのものに対する自己犠牲」なので、だれか特定の個体のため に自己犠牲するわけではありません。従って、「相手が自己犠牲的 かどうか見分けて自己犠牲的な行動をとるかどうか決める」 というのは、(仮に群淘汰の話であるにせよ)かなり非典型的な 場合について話していることになります。

個体の識別によって(典型的)群淘汰が成立するとしたら、もっと積極的に、 ただのり戦略をとる個体を周囲の個体が見分けて「懲罰」するような 場合でしょう。しかし遺伝子を直接みることはできないので、遺伝子 のレベルでこの見分けが成立するには、長谷川さんたちが書かれて いるとおり、非常に緊密で小規模な血縁集団が必要になります (しかもそれでも「ただのり」遺伝子の侵入は完全には防げない)。 行動のレベルで見分けが成立するには、自分に直接の害がほとんど ない「ただのり」行動を見分ける能力が必要になります。 (集団暴走に参加す「べき」なのにそうしない レミングが一匹くらいいたところで個々のレミングが被る害は大した ものではありません。)さらに、そうした個体を「懲罰」するとなれば 懲罰する個体の方にもコストがかかるでしょうから、そうした見分け 能力のその個体にとっての収支はマイナスになりそうです。 ここが(見分け能力が高ければそれだけ得をする)互恵的利他行動と 群淘汰の違うところです。

勝手な推測ですが、おそらく長谷川さんたちは、以上のようなことを 噛み砕いて簡単に書こうとして、ちょっと筆がすべってああいう 書き方になったんではないでしょうか。

なんて素人がえらそうなことを書いてしまいましたが、なんか おかしいところがあればご指摘ください。


Id: #b20000701171616  (reply, thread)
Date: Sat Jul 01 17:16:16 2000
In-Reply-To: b0026.html#b20000630160433
Name: まきの
Subject: 「科学」7月号

を、うっかり読んでしまったので、ちょっと書きます。この号には長谷川・長 谷川による「戦後日本の殺人の動向」なる論文が掲載されておりまして、それ について。論文の概要は「科学」のページ にあります。 彼らが戦後日本の特徴であるとしてあげているものの一つが、「嬰児殺し」が 多いことです。特に、
この日本における血縁者殺人を押し上げている要因が、母親による実子殺しで ある。(p.563)
とのべられています。ところが、これには定量的な根拠が少なくとも論文中に はありません。というのは、日本以外での血縁者殺人の被害者の内訳がどこにもしめ されていないからです。また、実際に数字があげられている 1955 年のデータ では、母親による「嬰児殺し」は殺人全体の 1/16, 血縁者殺人に限っても 1/6、さらに「子殺し」に対してもそのおよそ 1/3 に過ぎません。また、数字 はあげられていませんが、1990年代では「嬰児殺し」の殺人全体に対する割合 はさらに減っているようです。従って、殺 人の「一般的なパターン」というものをもし見ようとしているのなら、「嬰児 殺し」を特に取り上げる理由はあまりないように思えます。

次にのべられているのは、男性に限った場合に、戦後に10代、20代の殺人が一 貫して減ってきているのに対し、中高年層の殺人はそれほど減っていないとい うことです。これ自体は特に問題はないでしょう。(もっとも、これは別に新 しい知見というわけではないですが)しかし、その後の分析は目を疑うような ものです。

彼らは、戦後の急速な高学歴化が殺人率の低下の原因であり、中高年層は若年 層に比べて学歴が低いことが「比較的高年齢の男性の殺人率を上げる要因の少 なくとも一つになっているようだ」としています。まあ、「少なくとも一つ」 といっても、他に要因はなにも上げられていないので、「これが原因」といっ ているようなものです。

ところが、学歴と殺人率に因果関係があるという彼らの主張には、ほとんど定量的 な根拠がありません。彼らが数字を出しているのは、「90年代の判決文の中で、 40歳以上の殺害者で学歴が記されている98例では、、、(中卒以下が)全体の 約6割を占めていた」というものだけです。この、6割が多いか少ないかということ が問題ですが、彼らの論文の図6から大雑把に読みとると、1990年に40歳以上 の人のうちでで義務教育までしか受けていない人の割合は少なくとも 40%、も うちょっと多いかもしれません。仮に人口比が 45% とすれば殺人の割合が 60% というのはせいぜい2σレベルであり、統計的に有意とはいい難いでしょ う。また、いうまでもありませんが統計的に有意であっても因果関係があると いうことにはなりません。

さらに、仮にこの学歴と殺人率の相関が統計的に有意である、さらには因果関 係であることが示せたとしても、 40歳以上の高学歴者の殺人率は40歳以上全体のそれに比べてせいぜい30%程度 しか低くなく、彼らの主張する中高年層の殺人率の高さの要因としては、学 歴との関係は仮にあったとしてもあまり大きなものではないと結論出来るよう に思われます。

なお、若年層の殺人率の低下の原因が高学歴化であるという彼らの意見の根拠 については、「高学歴化するにつれて殺人率が下がってきた」というようなも のしか与えられていません。これはまあ、例えば「テレビが普及するにつれて、 自動車も普及してきた。これはテレビの普及が自動車の普及の原因であること を示している」というようなもの、要するに全く論外な代物というしかありま せん。

というわけで、この論文はスタージョンの法則の「90%」のほうに入るので はないかというのが私の印象です。まあ、どんな学問分野にも 90% というの はあるわけで、そのこと自体は別に問題ではないのかもしれませんが。


Id: #b20000701154426  (reply, thread)
Date: Sat Jul 01 15:44:26 2000
In-Reply-To: b0026.html#b20000701101140
Name: くろき げん
Subject: 小泉義之の『ドゥルーズの哲学』について

いなばさん、正直言って、私の方が誤読である理由が全く理解できません。

例えば、小泉が別の場所で、自然選択説を科学的に正しく理解していること (少なくとも「同義反復」ではないことぐらいは理解してこと) を示していて、かつ、自然選択説を「悪しきゲーム」を前提にしているという理由で否定してはいけないと主張していることがわかれば、「『ドゥルーズの哲学』ではどうしてあのようあ書き方をしたのだろうか?」という疑問は残るものの、「私の誤読である」と納得しても構わないと考えています。

しかし、いなばさんは、「いやそこはむしろ黒木さんの完全な誤読です」と言った後に、その証拠を示す方向に議論を進めずに、「これはすでに小泉の議論の読解の正当性を云々する議論ではない」と言い直している。「Aさんの完全な誤読である」と「X氏の議論の読解の正当性を云々する議論ではない」は論理的には両立できる主張ではあるのですが、当事者のAとしては、必要な証拠を何も示さずに「誤読だ」と決めつけられた直後に何の修正もなしに、誤読云々に関する議論は保留しよう、という意味のことを言われたような感じがして気持ちが悪いです。後で書いたものを読めば全てがはっきりするのでしょうか?

たとえいなばさんの解釈を認めたとしても、小泉は読者に対してただの自然選択説と「発見法に過ぎないダーウィニズムの存在論や倫理学への拡大解釈」を分離せずに説明して、それを「自然淘汰論」と呼び、「同義反復」で「悪しきゲーム」を前提としているという理由で否定しているのは確かなことです。このことを私の引用は十分に示しています。私はこのようなやり方自体が批判されなければいけないと考えています。 (詳しく論じてはいませんが、このような問題点とは別に、『ドゥルーズの哲学』には数学用語や生物学用語を権威的かつデタラメに濫用しまくっているという『「知」の欺瞞』的な問題もあるのだ。)

素直に解釈するとデタラメなことを言っているに過ぎない文献を、その中に出て来る単語を通常とは全く逆の意味に読み替えることによって、「実は穏健で常識的なことを言っているに過ぎないのだ」と擁護してしまうのはまずいと思う。 (これは何度も出て来た論点です。 cf. 『「知」の欺瞞』の教訓の7)

建設的に議論を進めるためには、そのような文献をそのようなやり方で擁護するのはいさぎよく止めて、独立に議論を展開することによって良いアイデアの存続をはかるべきだと思います。

P.S. 参考までに小泉義之が「科学」をどのように利用しようとしているかがよくわかる一節を『ドゥルーズの哲学』 (講談社現代新書1504) から抜粋しておきます:

 ……。したがって、分子生物学の発展を真摯に受け止めるなら、いかに異常な胚細胞でも、いかに不出来な胚細胞でも、すべての胚細胞が生きるのがよいということになる。胚細胞が流れて死んでしまっては、まさに元も子もなくなるからである。自然科学の使命、分子生物学の使命は、人間の価値観や道徳観を越えて、すなわち人間の善悪を越えて、自然と生命を探究することである。科学は、善悪の彼岸の知識であり、善悪に対して中立的な知識である。生命科学の使命は、善悪の彼岸で中立的に、すべての胚細胞を生い立たせることである。これは、人間の胚細胞にも適用される。
 ところが科学者は、俗悪な価値観を撒き散らしている。科学の使命と懸け離れた差別的な道徳観を撒き散らしている。その理由は、科学者自身が俗悪で差別的であるというところに求められるだろうが、しかしむしろ、科学者自身が、科学の意味するところについて真摯に思考してないというところに求められるべきである。科学は役立つと法螺話を吹くだけで、科学の中立性について真剣に考えることがないのである。 (16-17頁)
 ……。人間以外の生物は、道徳観には囚われていない。言葉の厳格な意味において、無垢である。もちろん人間は動物に倣【なら】って生活することはできない。人間は、無垢なる自然界において、堕落したからだ。 (18頁)
 現代カオス理論や現代分子生物学の達成を真剣に受け止めて、差異を生産する微分的なものを真摯に考察し直さなければ、自然界についても生物界についても、現代思想の理論的閉塞状況を打破して、未来に開かれた理論を立ち上げることはできない。 (27-28頁)
 本当の問題は、万物が仏になるということ、万物に仏性があるということを、自然科学の達成に応じて現代化できるかということにあるのだ。そんな現代化に耐える思想でなければ、捨て去って忘れ去ればよい。論じたり研究したりする意味はない。 (67-68頁)

まだ、他にもたくさんありますが、この辺で止めておきます。「科学」「科学者」「無垢なる自然界」「カオス理論」「分子生物学」「自然科学」などなどの言葉がどのように肯定的・否定的に使われているかに注目して下さい。一部の困った人達がひきおこした事例を具体的に挙げることによって批判するのではなく、「科学者」をひっくるめて悪人のように語ることによって攻撃するという流儀は典型的ですよね。このような議論の仕方が「二つの文化」の溝を深めているのだ。きっちり攻撃したいのなら具体的に事例を挙げて『「知」の欺瞞』のようなやり方で批判を展開すべきだと思う。そして、別の一方では小泉は「中立的な知識」の権威だけは (中立的でもなんでもないやり方で) 都合良く利用したいと思っているのだ。『ドゥルーズの哲学』の読者は上のような文章に科学概念の権威的でデタラメな濫用をブレンドしたものを延々と読まされることになるわけです。そして、「第I部」の締めの議論として自然淘汰論の否定を読まされることになる。

批判精神に欠けた読者は「小泉義之は、分子生物学とカオス理論という最新の科学によってドゥルーズの差異の倫理学を現代化し、科学的かつ哲学的に悪しき自然淘汰論を否定し、生命・自然・未来に繋がる思想を展開しているのだ」と思ってしまうに違いありません。そして、穏健過ぎる読者は「アラは目立つが、分子生物学やカオス理論と伝統的哲学の諸問題との接点を求めてチャレンジする著者の心意気は買いましょう」と言うかもしれない。しかし、私はそのような穏健さはデタラメを蔓延させる原因になっていると考えているので、「チャレンジではなく科学概念の権威的でデタラメな濫用に過ぎない」と言い切ってしまうのだ。

ちょっとだけコメント。今どき「無垢なる自然界」とはすごいよね。ヒト以外の動物の子殺しの研究を小泉は知らないのか? いや、それ以前の問題として、自然界がああだこうだという話と倫理の話を直結させちゃあいかんですよね。自分の意見を正当化するために科学概念の権威的でデタラメな濫用を平気でしでかす人物が「科学の中立性」について語るとは笑止千万。その上「自然科学の達成に応じて現代化」できない思想は「論じたり研究したりする意味はない」とまで言っている。本当にそうか? 僕はそうだと思わないし、少なくとも小泉のようなやり方で思想を「自然科学の達成に応じて現代化」しても無意味で有害であることは確かなことだと思う。


Id: #b20000701101140  (reply, thread)
Date: Sat Jul 01 10:11:40 2000
In-Reply-To: b0026.html#b20000701101011
Name: いなば
Subject: というか

これはすでに小泉氏の議論の読解の正当性を云々する議論ではない。私がやっているのは、小泉『ドゥルーズの哲学』の骨を拾うというか、最大限善意で解釈するとどうなるか、を試しているに過ぎないんですけどね。
Id: #b20000701101011  (reply, thread)
Date: Sat Jul 01 10:10:11 2000
In-Reply-To: b0026.html#b20000630233817
Name: いなば
Subject: ちょっと後で書きます

 いやそこはむしろ黒木さんの完全な誤読です。しかしまあ、この誤読の責任は小泉氏の方にある。誤読されて当然、というか、本意が伝わらないような書き方をしているのは彼なんですからね。
 しかし彼の本意はそういうことではない。ここで「精確に自然淘汰論を解さない人間たち」として念頭に置かれているのは、発見法に過ぎないダーウィニズムを存在論や倫理学へと拡大解釈している人たちです。科学としてのダーウィニズムそれ自体を精確に理解しているかどうかは、関係ない。というか、小泉的には、まあそれゆえにこそ犯す誤り、ということになるのでしょうか。(こういう小泉氏の判断の妥当性は疑えるとは思います。)
 科学的なダーウィニズムに対して「個体の生存や個体の変異を肯定していない」と因縁を付けてもどうしようもないですが、普遍的=存在論的ダーウィニストをそう論難することは誤りではない。ダーウィン的進化のプロセスとは関係なしにこの世に到来する存在、生き物、精神を遇するためには、ダーウィニズムではたりないからです。そのようなものが果たして実在するかどうかは分からないが、その可能性は開いておかねばならない。ダーウィニズムを普遍化し、存在論に格上げ(格下げ?)することはその可能性を閉ざしてしまいます。
 存在論的ダーウィニズムと倫理学の関係は、ちょっと微妙ではあります。普遍的ダーウィニズム、つまり存在論としてのダーウィニズムをとることイコール、ダーウィニスト倫理学をとること、とはならないからです。ただし、倫理学というものは、道徳的にもののかずにはいる存在を見分けるために、どうしても存在論を前提とせざるを得ない。それゆえ、存在論的ダーウィニズムを前提とする倫理学は、どうしてもある種の偏向を帯びるのではないでしょうか。
Id: #b20000630233817  (reply, thread)
Date: Fri Jun 30 23:38:17 2000
In-Reply-To: b0026.html#b20000630181117
Name: くろき げん
Subject: 小泉義之にとって「精確に現代進化論を解する」とはどういうことか?

いなばさんは、小泉の

 現代進化論には、ドゥルーズ的な愛と倫理が欠けている。あるいはむしろ、精確に現代進化論を解さない人間たちに愛と倫理が欠けている。ここでは、自然淘汰(自然選択)論を取り上げておく。
(『ドゥルーズの哲学』128頁より)

における「精確に解された現代進化論」の中に「精確に解された自然淘汰論」が含まれていると解釈し、これ以後の「自然淘汰論」を「精確に自然淘汰論を解さない人間たち」に逐一読み変えるべきだと主張しています。しかし、これは完全な誤読だと思います。話はまるっきり逆で、ここで小泉が言いたいことは「自然淘汰論が正しいと考えている人は精確に現代進化論を解してないし、そのような人にはドゥルーズ的な愛と倫理が欠けている」ということです。実際、このように解釈すれば、いなばさんにとって意味不明に見えた小泉の次の一節は何の読み変えなしにそのままで意味が通るようになります:

 「自然淘汰論」は、成熟性と繁殖性と、それらを発現する遺伝子だけに関心を寄せて、短命の個体や子をなさぬ個体に関心を寄せないから、個体の生存そのもの、個体の変異そのものを一度も理論的に肯定することがない。
(『ドゥルーズの哲学』129頁より)

さらに、以下に引用するように、小泉はインドガンの自然淘汰に関して大旨正しいことを述べているので、「自然淘汰論」の全てを「精確に自然淘汰論を解さない人間たち」に読み変えることは不可能です:

 ヒマラヤ山脈を越えて渡るインドガンについて、自然淘汰論はこんな説明を与える。インドガンの祖先種は、ヒマラヤ山脈より高度の低いところを渡っていたと想定する。このとき、インドガンは、高度の高いところを渡るように進化したことになる。どうしてだろうか。とにかくインドガンは、何を思ったか、ヒマラヤ山脈を渡ろうとした。インドガンは、ヒマラヤ山脈を越えるというゲームを選択した。あるいは選択させられた。ところで高度を飛ぶためには、酸素を効率よく吸収する形質が有利である。正確には、酸素を効率よく吸収して長生きして子沢山になるために形質が有利である。したがって、ゲームに参加したインドガンにあっては、かかる淘汰圧の下で、適応度の高い個体が多数を占めて、適応度の低い個体は、低地を徘徊するか高地で死ぬかして小数派に転落したであろう。こうしてインドガンの集団は、祖先種とは異なる様相を示すようになった。
(『ドゥルーズの哲学』130-131頁より)

参考までに『進化と人間行動』における同様の説明も引用しておきます:

 赤血球関係の話をもう一つ。インドガン (Anser indicus) というガンの仲間がいますが、この鳥は、ヒマラヤの上空、地上 9000m ものところを飛んで渡りをします。そんなことができるためには、非常に薄い空気からでも効率よく酸素を吸収できねばなりません。事実、この鳥は、呼吸によって酸素を吸収する能力が非常に優れているのです。それは、酸素を運ぶ役目をしているヘモグロビンの遺伝子に変化が起こり、他のガンカモ類ではプロリンというアミノ酸があるところが、アラニンに変化したためです。このアミノ酸の変化のために、このガンは、他のガンカモよりもずっと酸素を効率よく吸収できるので、高いところを渡っていけるのです。これは、 9000m もの上空を渡るための適応です。
 インドガンの祖先は、初めからこのような上空を渡っていたわけではないでしょう。また、プロリンがアラニンに変化するような変異は、どのガンの仲間にも、ときおりは生じるものなのでしょう。しかし、だんだん高いところへ渡って飛ぶようになったときに、この種のガンが持っている変異のうち、ヘモグロビンにこのような変化を持っていた変異は、非常に有理になったと考えられます。すると、このタイプのヘモグロビンを持った鳥は、そのような生活をしている上では生存率や繁殖率が上がるでしょう。それが長い間繰り返されてきた結果、いまでは、インドガンはどの個体でも、このタイプのヘモグロビンを持っているのです。
(『進化と人間行動』32-33頁より)

以上で示したように、小泉が単に「自然淘汰論」と書いている部分をわざわざ「精確に自然淘汰論を解さない人間たち」に逐一読み変えるべきだといういなばさんの解釈は誤りです。

最後に、小泉がどのように「自然淘汰論」を否定しているかも引用しておきましょう。「自然淘汰論」を「同義反復」でドゥルーズの『差異と反復』の意味での「悪しきゲーム」を前提にしているという理由で否定しているのだ:

 一体これは、何によって何を説明しているのだろうか。それが同義反復に終わっているという批判である。すなわち、現実にヒマラヤ山脈を越えるインドガンが生存するという事実を、淘汰圧や適応度なる言葉で記述し直しているだけという批判である。正しい批判だと思う。自然淘汰論が、そんな批判をかわしきれないのは、どうしてヒマラヤ山脈を越えるというゲームが始まったかを説明しないからである。さらには、そもそもインドガンに課せられたゲームを、そのように記述しても許されるかということについて何ら方法論的反省を行っていないからである。ある種の人間の目には、インドガンはヒマラヤ山脈を越えるというゲームを課されたかのように見えるだけのことなのだ。当たり前だが、ガンの目には、まったく別のゲームを課されたように見えるはずだ。しかしそれだけでは、人間のパースペクティヴやガンのパースペクティヴから、しかもごく狭いパースペクティヴから、自然界を見るだけになってしまう。私たちが思考すべきは、あれこれのパースペクティヴに対して中立的なゲームを、ドゥルーズの言葉では、理想的で偶然的な神のゲームを、いかにして記述するかということである。
 「得するかもしれぬが損するおそれもあるゲームは、悪しきゲームである。偶然の全体を肯定しないからだ。得失を決める規則が予め定められているから、どんな得失になるかを知らない賭け手には欠如があることになる。これに対して、未来のシステムは神のゲームと呼ばれるべきだ。そこに規則は予め存在しないし、ゲームの規則を選ぶこともゲームの規則になっている」 (『差異と反復』)
 ヒマラヤ越えというゲームは、悪しきゲームである。勝ち負けの規則も、得失の配分も、均衡状態も、予め定められているゲームである。だから、ゲームの敗者は、その失点を取り返そうとして嫉妬や怨恨に駆り立てられるし、ゲームの勝者は、その得点を守ろうとして高慢や差別に駆り立てられる。個体の差異は否定や対立にすり替えられて、敗者は、異常で欠陥のある弱者と評価されることになる。ゲームに参加しない局外者は、退化した愚鈍な部外者と評価されることになる。しかし「神すなわち自然」 (スピノザ)のゲームが、かくも粗雑な同じ一つのゲームであるはずがない。自然界が、野性のガンに対して、そんなケチ臭いゲームを課すはずがにのだ。
 悪しきゲームを捨てて、神のゲームに賭けることにしよう。
(『ドゥルーズの哲学』131-132頁より)

さすがに自然淘汰説が「同義反復」というのはひどい誤解だし、「悪しきゲーム」を前提にしているという理由で自然淘汰説を攻撃してしまっていることは、社会ダーウィニズムのような考え方と自然淘汰説を小泉義之が混同していることを示しています。


Id: #b20000630181117  (reply, thread)
Date: Fri Jun 30 18:11:17 2000
In-Reply-To: b0026.html#b20000628212153
Name: いなば

 全体として小泉義之『ドゥルーズの哲学』が駄目な本であることに異論はありません。しかし、厳密に言うと、小泉氏は黒木さんの言うように「社会ダーウィニズムのような思想と自然選択説を混同し、自然選択説を邪悪な考え方として否定しようとする」わけではありません。
 『ドゥルーズの哲学』128頁にはこうあります。

 この世に生まれ出たすべての個体は、すでに自然選別を受けて世界に適応したし、すでに生と死のゲームを命懸けで潜り抜けた。だからドゥルーズは、無条件に個体の生存を肯定するし、個体のいかなる変異も肯定する。
 この一節自体はもちろん、社会ダーウィニズムとは相容れない、というより真っ向から対立する立場の表明です。それはもちろん厳密な意味ではダーウィニズムの正しい解釈ではありません。あえて言うなら、たとえば、

 現在、地球上に存在しているすべての生物は、どれも皆進化の最先端にいます。(長谷川・長谷川『進化と人間行動』42頁)
という正統ダーウィニズム的命題に、神学的なというか道徳的な粉飾を加えたものです。社会ダーウィニズムが、進化を高みを目指しての目的的プロセスと見なし、「人間=進化の最先端」図式、更に人間の中にも「より進化した優秀人種・対・進化の度合いが低い劣等人種」図式を持ち込んで、進化という神による選びと救済の教説を垂れ流すものであるとすれば、ここで小泉が提示しているのは「もし進化が神ならば、すべての存在は常にすでに神によって選ばれ、救われている」という対抗教説です。
 もちろんこれは科学としてのダーウィニズムではありません。哲学でさえない。一種の宗教です。しかしそう割り切るならば、(社会ダーウィニズムとは違って)科学としてのダーウィニズムの正確な理解とは両立しうる立場です。
 それから、この辺も注意深く読んだ方がいいでしょう。

 現代進化論には、ドゥルーズ的な愛と倫理が欠けている。あるいはむしろ、精確に現代進化論を解さない人間たちに愛と倫理が欠けている。ここでは、自然淘汰(自然選択)論を取り上げておく。(『ドゥルーズの哲学』128頁)
 つまり、この後にすぐ続く問題の「自然淘汰論」の項を読むときには、読者としてはすべての「自然淘汰論」という言葉を「精確に自然淘汰論を解さない人間たち」と逐一読み替えるべきだ、ということになりましょう。
 たとえばこうです。

 自然淘汰論は、成熟性と繁殖性と、それらを発現する遺伝子だけに関心を寄せて、短命の個体や子をなさぬ個体に関心を寄せないから、個体の生存そのもの、個体の変異そのものを一度も理論的に肯定することがない。(『ドゥルーズの哲学』129頁)
この意味不明の文章を

 精確に自然淘汰論を解さない人間たちは、成熟性と繁殖性と、それらを発現する遺伝子だけに関心を寄せて、短命の個体や子をなさぬ個体に関心を寄せないから、個体の生存そのもの、個体の変異そのものを一度も理論的に肯定することがない。
とすれば、まだしも意味が通ってくると言えましょう。たとえばこれはドーキンスを読む竹内久美子にぴったり当てはまるのではないでしょうか。(もちろん、わざわざこうやって読み替えねば意味が通らないあたり、やっぱりこの本は駄目なんですが。)
 科学的な理論仮説、発見法としてのダーウィニズムを「成熟性と繁殖性と、それらを発現する遺伝子だけに関心を寄せて、短命の個体や子をなさぬ個体に関心を寄せない」と論難しても仕方がありません。むしろそうであることによって、ダーウィニズムは有効な科学的ツールたりえている。小泉氏による論難にはそのような匂いも濃厚であり、たしかにその限りでは言いがかりにすぎない。しかしながら、たとえばドーキンスやデネットにとって、ダーウィニズムは単なる発見的仮説ではなく、「普遍的ダーウィニズム」という一種の存在論、形而上学になっている。その意味では小泉氏の言いがかりにも三分の理はあるのではないか、と思います。つまり、ドーキンスやデネット自身がそうだとは言い切れないが、一般的に「普遍的ダーウィニズム」を真に受けすぎる(=精確に解さない)と「個体の生存そのもの、個体の変異そのもの」を肯定できなくなるおそれがある。これは実証科学的な意味でも、倫理的な意味でもそうである、とは言えましょう。もっとも、このレベルの違いを小泉氏はきちんと示していませんが。
Id: #b20000630160433  (reply, thread)
Date: Fri Jun 30 16:04:33 2000
In-Reply-To: b0026.html#b20000630131309
Name: まきの

すでに私の書くべきことがなくなっている、、、ええと、日本語について、昨日打ち合せで岩波の林さんに会いましたが、その時に、あれ(まきのがここの最後で並べた憶測)は違うといわれました。長谷川氏の「科学」の連載では毎回完璧な原稿が届いていたそうです。 ということで、上の憶測については、失礼なことを書いてしまい申し訳ないと思っております。

そうすると、しかし、本のほうはよほど急いで書くとかしたのかな?締切がきつかったのかもしれません。

というわけで、あせってはいけないということで研究会集録の締切がせまっているのにこんなものを書いているまきのでした。(そういう問題ではない?)


Id: #b20000630142654  (reply, thread)
Date: Fri Jun 30 14:26:54 2000
In-Reply-To: b0026.html#b20000630131309
Name: いなば

 『進化と人間行動』164頁に、血縁関係にない個体間での互恵的利他行動の進化の条件のひとつとして、「動物が、互いに個体識別し、過去にどんな行動のやりとりがあったかを記憶できるようななんらかの認知能力を持っていること。」とあります。
 「文系」を特に意識した進化論の入門的教科書であれば、ある程度注意深いというか疑い深い読者が、この箇所と問題の77頁最終パラグラフとの間には不整合というか矛盾があるんじゃないかと頭を悩ませてしまう可能性に対して、配慮した方がいいでしょう。

 第4章の趣旨は「種の利益」論、実体としての「種」概念の否定、にあるわけです。もちろん、現代的な血縁淘汰論とか互恵的利他行動論には「種」の概念は必要ない。必要なのは、血縁集団とか利他行動を取り合う個体集団、である、と。要するに繁殖やその他行動を通じて具体的に関係を結ぶ個体たちの具体的な集団が問題なのであって、「種」などという抽象概念の出番はない、と。
 しかし第4章では、「種」概念の否定と「群淘汰」というときの「群(group?)」の概念の否定がごちゃごちゃになっている。そもそもいったいここで言う「群」とは何か? どこからどこまでを含むのか? がよくわからない。「種species」は駄目、として、では「個体群population」は? 「デームdeem」は?(この二つの違いも私にはよく分かりません) そして血縁集団は? 互恵的利他主義個体の集団は? という風に疑問が出てくるわけですね。
Id: #b20000630131309  (reply, thread)
Date: Fri Jun 30 13:13:09 2000
In-Reply-To: b0026.html#b20000629233241
Name: 江副
Subject: 「コストがかかる」って?

まきのさんの挙げられたp.76-77の範囲や、その付近の文章には、「コスト」という語句は見当たりませんが、これは別の箇所から引いてこられたのでしょうか?それとも、まきのさんにとって「コストがかかる」という意味に解釈できる箇所があったということなのでしょうか?

まきのさんが特に問題視されているp.77の最後のパラグラフを全文引用します。
 では、個体が,自己犠牲するタイプかそうでないかを見分けることができ,自己犠牲するタイプは,同じタイプの個体に対してのみ自己犠牲をし,そうでないタイプのためにはしてやらない,という区別ができればどうでしょう? これなら,自己犠牲する集団が自分たちだけのために協力しあうことは出来ます.しかし,同じタイプかどうかということを見分けるというのはなかなかやっかいな仕事で,これができるためには,自己犠牲する集団の個体どうしが,異常なほど近親婚を繰り返していなければなりません.そんなことも,自然状態ではほとんどありえないので,結論として,群淘汰はなかなか働かないということになります.
「異常なほど」とか「ほとんどありえない」とかいう議論は定量的でないから、ダメとおっしゃっているのでしょうか?教科書レベルでそれを議論してないのは杜撰?
この本の良い部分を無視して、そういうところをつつかなくてもと思いますけど。

一般に、自発的な利他行動の理論的説明として、互恵的利他行動と血縁淘汰がありますが、 前者は「自分と同じタイプを見分けて助ける」行動とは考えられていません。協力が持続するかどうかは双方の行動次第です。
また、血縁淘汰による利他行動も、集団全体に較べて範囲が非常に狭いので、ここでの議論の外です。

蛇足:文章がちょっとアレなのは、もしかして、啓蒙書として分かりやすく書こうと無理をした結果なのでは?という気がしてるんですけど、皆さんそういう経験ないですか(笑)
Id: #b20000629233241  (reply, thread)
Date: Thu Jun 29 23:32:41 2000
In-Reply-To: b0026.html#b20000629145110
Name: まきの
Subject: あやや、

山形さんに解説されてしまった。ええと、僕の理解もそういうことです。

山形さんには改めていうまでもないことですが、以下、一応念のため。

私が、問題の箇所の議論がずさんであると書いたのは、「コストがかかる」という理由で自分と同じタイプを見分けて助けるような「群淘汰」はおきないということだと、定性的には「コストがかかる」のは血縁淘 汰や協力行動も同じなんだからやはりおきないということになるわけで、実際にコストがどれくらいとかいう定量的な話になってないといけないのではないか?という疑念からです。一般論で定量的な話に持ってくのは難しいですし。

と、ここまで書いてふと思ったのですが、「自分と同じタイプを見分けて助ける」というのは協力行動において見返りを期待できそうな相手を助けるというのと全く同じことのような気もする(いなばさんが書かれているのはそういうことですよね?)ので、問題の箇所は直接的に協力行動を否定する議論になっているような気もしてきました。


Id: #b20000629171651  (reply, thread)
Date: Thu Jun 29 17:16:51 2000
In-Reply-To: b0026.html#b20000629145110
Name: 江副日出夫
Subject: 進化と人間行動

ひさしぶりに書き込みします。
黒木さんのevolveへの投稿を見て、誘われてきました。
「進化と人間行動」は持ってますが、最近他にもいろいろ買ったうちの一冊なので
まだきちんと読んでいなくて、本格的に論評は出来ませんが・・・

山形さん:
それを言ったらだれが同じ血縁を持ってるかだって見分けるのはむずかしかろう
おっしゃるとおりです。
だからこそ、血縁淘汰がはたらいてないと考えられる生物のほうが圧倒的に多いし、
また、血縁淘汰による利他行動をもつと考えられる生物でも、利他行動の範囲は
たいてい家族にしか及ばず、集団全体に対する利他行動ではありません。
というわけで、長谷川本のくだんの記述がどうして(現在知られている)血縁淘汰の否定に
なるのか、私にも分かりません。 あと、山形さんの書評について、一言。
ガイジンならいいけど、日本人にはあたりさわりなく、というのが露骨にうかがえる。
このような理由で竹内氏への名指しの批判を避けているとは考えられません。
批判を控えたからといってどんな利点があるのか。
The Bell Curveとの扱いの差は、たぶん社会に与える影響の差だと思いますが、
いかがでしょう。私はこの本については知りませんが、アファーマティブアクションの
是非はしばしば政治的論争になっています。それと較べたら、竹内本は(反啓蒙的
ではあるにせよ)書き手も読み手もまだ冗談の範囲じゃないでしょうか。
Id: #b20000629171412  (reply, thread)
Date: Thu Jun 29 17:14:12 2000
In-Reply-To: b0026.html#b20000629145110
Name: いなば
Subject: 具体的に言うと

第8章の「互恵的利他行動」論との整合性が怪しくなるわけですな。コスミデス=トゥーリーの「社会契約」「裏切り者の検知」とか、山岸俊男の「信頼」とかいったコンセプトはどうなるの、と。
Id: #b20000629145110  (reply, thread)
Date: Thu Jun 29 14:51:10 2000
In-Reply-To: b0026.html#b20000628113213
Name: 山形
Subject: 進化と人間行動

うむうむ、ものぐさな外野のみなさまのために書いておくと、『進化と人間行動』における 群淘汰否定の議論、特に77ページ最後の議論というのは、「群淘汰が成立するためには、だれが自分と同じ群か、というのを見分ける ことが必要になるけれど、これはとってもむずかしいから群淘汰は成立し得ない」というもの。

だけれど、それを言ったらだれが同じ血縁を持ってるかだって見分けるのはむずかしかろう、同居してる親族ならともかく、いとこやはとこなんか ぜんぜんわからんのだから、血縁淘汰だって成立しないことになっちゃうだろう、とゆーことっすな。 なるほど。

ちなみに、その後の章で、血縁淘汰でどうやって親族を見分けるか、という議論が出てきます(pp.125-126)。 そこでは「いっしょに暮らしている」「においとか(でも人間ではこれは起きない)」「名前」が 挙がっています。うん、そうだな、これだと群淘汰はありえなくて血縁淘汰はオッケーという決定的な 議論にはならないなぁ。


Id: #b20000629083024  (reply, thread)
Date: Thu Jun 29 08:30:24 2000
In-Reply-To: b0026.html#b20000628235932
Name: まきの
Subject: 勘ぐってるというか、

それほど難しいことではないので、本を読んで中身がわかった人ならいちいち 説明するまでもないかと思ったのですが、、、と、こう書くと、まきのは黒木 さんが本を読んでないか、あるいは読んでも中身がわかってないといっている ことになってしまうかな。まあ、他に、わかっててなにか意図があって聞いて いるとか、いろんな可能性があるからかならずしもそうはならないですね。

山形さんに誉められたような気がして木にくらいは登りそうなまきのでした。


Id: #b20000628235932  (reply, thread)
Date: Wed Jun 28 23:59:32 2000
In-Reply-To: b0026.html#b20000628233155
Name: くろき げん
Subject: 揚げ足取りじゃないです

あ、山形さん、私の質問は揚げ足取りではありません。揚げ足取りは取られる揚げ足あってのものなので、まきのさんにも失礼だと思う。

まきのさんにも変に感ぐられてしまい、質問に答えて頂けなくて残念です。私がどのように考えているかと独立に説明して頂けるだけでもここの読者にとって役に立つと思います。せっかく批判するんだから、なるだけ具体的に説明した方が影響力が大きくなると思いました。


Id: #b20000628233155  (reply, thread)
Date: Wed Jun 28 23:31:55 2000
In-Reply-To: b0026.html#b20000628113213
Name: やまがた
Subject: なるほど

まきのさん、ありがとうございます。んー、あの程度のものが一、二ページに一ヶ所かそこらなら、 ぼくの基準ではそんなにひどいという感じでもないんですが。厳密には、確かにいずれもまきのさん の指摘どおりですし、たぶんそういうのが、全体のキレの悪い印象にも貢献しているとは思います が。でもこれは、ぼくがふだん、こんなのとは比較にならないほどすさまじいトンデモびじねす書や こじつけ報告書を腐るほど読んでるせいで、基準が低いのかもしれません。

  群淘汰を否定する議論で、そのまま血縁淘汰も否定されるような議論というと、なんか見当はつき ますが、本が会社にあるの で、ちょっと明日行って見てみます。

でもくろきさんもそこで揚げ足をとらないでいいじゃないですか。具体的な部分まで指摘してある んだし、気になる人は自分で確認するでしょう。そのうえで不明ならきけばよいのです。 揚げ足とりじゃなくて、単なるふつうの質問なのかもしれないけれど、その前で引用しつつ何も コメントしていないところとあわせて見ると、なんか下心ありげに見えますよ。

それにあとまきのさんの、ある仮説は社会的に受け入れられないといって否定して、自分のところは社会的な受容は 無視すべき、とされている点については、そういや確かにその通りでしたね。ぼくの書評での批判部分よりも 本質的な問題をついてるし、ぼく的にはなるほどな、という感じです。


Id: #b20000628215732  (reply, thread)
Date: Wed Jun 28 21:57:32 2000
In-Reply-To: b0026.html#b20000628214311
Name: まきの
Subject: あ、それから、

黒木さん自身は私の下のコメントについてどのような意見をお持ちなんでしょうか? まあ、答えたくなければ答えなくてもいいですが、黒木さん自身にとって全く 意味がないものをわざわざどこやらの ML で紹介されたわけでもないでしょう し。
Id: #b20000628214311  (reply, thread)
Date: Wed Jun 28 21:43:11 2000
In-Reply-To: b0026.html#b20000628212727
Name: まきの

黒木さん、これは、黒木さんは自分で考えてわからなかったということでしょ うか?とりあえず、黒木さんがどういうふうに考えたかというのがこちらにわ からないと、どのように説明するべきかもわかりませんし、お互いに時間の無 駄になるように思いますが、いかがでしょう。
Id: #b20000628212727  (reply, thread)
Date: Wed Jun 28 21:27:27 2000
In-Reply-To: b0026.html#b20000628113213
Name: くろき げん
Subject: 長谷川寿一、長谷川眞理子共著、『進化と人間行動』について

まきのさん、『進化と人間行動』のpp.76-77における「かなりずさんな議論」によって、どのように「血縁淘汰や協力行動の進化も同様に否定されてしまう」のか説明して頂けませんか?


Id: #b20000628212153  (reply, thread)
Date: Wed Jun 28 21:21:53 2000
In-Reply-To: b0026.html#b20000628113213
Name: くろき げん
Subject: 『進化と人間行動』、『ドゥルーズの哲学』

以下のようなメールを evolve ML 宛に出しました:

Date: Wed, 28 Jun 2000 21:08:56 +0900 (JST)
From: Kuroki Gen <kuroki@math.tohoku.ac.jp>
Subject: [evolve:7373] <Books> 進化と人間行動、ドゥルーズの哲学
To: evolve@affrc.go.jp
Message-Id: <200006281208.VAA04130@sakaki.math.tohoku.ac.jp>

evolve ML の皆様、始めまして、黒木玄と申します。

長谷川寿一、長谷川眞理子共著、『進化と人間行動』、東京大学出版会、2000
年4月20日初版、定価2500円+税。

この本の反響に関する情報です。

牧野淳一郎氏 (http://grape.c.u-tokyo.ac.jp/~makino/) による『進化と人
間行動』への批判を

  http://www.math.tohoku.ac.jp/~kuroki/keijiban/b0026.html#b20000628113213 
  http://www.math.tohoku.ac.jp/~kuroki/keijiban/b0026.html#b20000627181223

で読むことができます。

その話題の発端になった山形浩生氏 (http://www.post1.com/home/hiyori13/) 
の Sight 4号 (2000.6刊行)に掲載された書評は

  http://www.post1.com/home/hiyori13/sight/sight04.html

で読めます。

私は、山形氏の

  ……。ただし竹内本【引用者註:竹内久美子の本】への直接のコメントはなく、
  暗に言及されているだけ。ぼくはこういうやり方が嫌いだ。気に入らない論者
  がいると「XXなどという論者もいるようだが」とか書いて、具体的な指摘をせ
  ず内輪の目配せで揶揄するだけというのは不健全だ。……

という意見に賛成です。『進化と人間行動』の前半においてよくある進化に関
する間違った考え方について簡潔にまとめてあるのは非常に良いと思うのです
が、それに反することが書いてある文献に対する批判の仕方が具体的でないの
はよろしくないと思いました。

竹内久美子タイプのトンデモも困りものなのですが、いまだに社会ダーウィニ
ズムのような思想と自然選択説を混同し、自然選択説を邪悪な考え方として否
定しようとする一部の(しかし無視できないだけ多くの)人文社会科学者達も困
りものだと思います。『進化と人間行動』に書かれているようなことについて
説明するときには、そのような人達との対決は避けられないと思う。

例えば、最近出た本では、小泉義之著『ドゥルーズの哲学――生命・自然・未
来のために』講談社現代新書1504の「第I部」は善悪問題とからめて自然選択
説を否定しているという意味で典型的だと思います。

その「第I部」の最終節(128-132頁)の題名は「自然淘汰論」であり、そこで
「自然淘汰論」は「同義反復」であり「悪しきゲーム」を前提にするものとし
て否定されています。

ちなみに、小泉はその『ドゥルーズの哲学』の中で以下の本を refer してい
ます(なぜか小泉は出版社の情報は省略している):

  p.38 高橋陽一郎『微分方程式入門』
  p.44 志賀浩二『極限の深み』
  p.86 池田清彦『分類という思想』
  p.96 三中信宏『生物系統学』、宮田隆編『分子進化』
  p.101 河田雅圭『進化論の見方』
  p.117,p.121 柴谷篤弘『構造主義生物学』

小泉による「科学」の利用の仕方は、良くてもせいぜい単なる半端な知識のひ
けらかしに過ぎず、ほとんどの場合において自分が好ましいと考える「思想」
を正当化するためのつまみ喰いに過ぎません。

この小泉の本はクズ同然なのですが、クズを読むことに耐えられる方は関連の
箇所を立ち読みしてみると良いと思います。しかし、人文社会科学系の学生に
数学や自然科学について教える立場にある方はこのような本の存在を知ってお
くべきだと思う。大きめの本屋では平積みになっているので、発見するのは容
易だと思います。

蛇足。小泉による数学に関する説明もかなり変です。小泉の『ドゥルーズの哲
学』では「解けない微分方程式」がキーワードの一つになっており、50-54頁
において小泉は「自然物と生物は、解けない微分方程式を、自ら条件を設定し
て、自ら解いている」(p.54)という好意的に解釈しても陳腐に過ぎない主張を
驚くべきものに見せかけるために非常な努力を払って失敗しています。小泉が
扱っている微分方程式は真の解の一意的な存在が保証されているような常微分
方程式ばかりなのですが、「厳密解を出すことは不可能だと証明可能」(p.50)、
「そこで数学的には、かなり激しい制限条件を課した上で、解けない微分方程
式に真の解が一意に存在することを証明する」(p.52)、「パラメータが隠して
いる要因を顕在化させて立てられる微分方程式については、真の解が一意的に
存在することが証明できない」(p.52)のように言ってしまっている。一般読者
には、「厳密解を出すことは不可能だと証明可能」されているので解くことが
「神にも不可能」(p.50)な微分方程式を「自然物と生物」は「自ら条件を設定
して、自ら解いている」という驚くべき事実を小泉が指摘しているかのように
読めてしまうことになるでしょう。しかし、小泉の議論の仕方は滅茶苦茶であ
り、デタラメもいいところである。

小泉は『「知」の欺瞞』(http://www.gakushuin.ac.jp/~881791/fn/) におい
て、ドゥルーズの数学用語の濫用が指摘されていることを知らなかったのだろ
うか? 小泉は「ドゥルーズ」の名のもとで同じことを繰り返してしまっている。

まあ、最近では似たような数学用語のデタラメな濫用は「文系」だけに限らな
いようですが。

--
黒木玄 (http://www.math.tohoku.ac.jp/~kuroki/index-j.html)

Id: #b20000628113213  (reply, thread)
Date: Wed Jun 28 11:32:13 2000
In-Reply-To: b0026.html#b20000628001053
Name: まきの
Subject: Re: 長谷川本

日本語については、「ぼけてる」ってのと「へろへろ」ってのはそんなに違う ことはいってないかも。僕がちょっと困ったものだと思った文のサンプルを以 下にいくつかあげます。大体 1-2ページに一つはこんなのがあって、だんだん 頭がぐらぐらしてきます。 あ、で、多くの論点がまとめてあるというのはその通りだと思います。で、人 の説の紹介のところはまあおいておくとして、著者が自分たちの考えを述べて いるところはどうも、、、というところがいろいろあります。これもいくつか 例をあげると、「社会ダーウィニズム」、「社会生物学論争」、「群淘汰」、 「性差」、「人種差」といったものについての彼らの主張は、一貫したものと はいいがたいように見えます。具体的には、「社会ダーウィニズム」と「群淘 汰」、すなわち彼らが否定的に見ているものに対しては、それらの社会への 影響がマイナスであることがそれらの説が問題であることの理由にあげられて いるのに対し、「社会生物学論争」と「性差」、つまり彼らが肯定的に見てい るものについては、社会への影響がマイナスであるという理由でそれらの説を 攻撃することは「論理的には誤り」ということになっています。

「群淘汰」については、それを否定する議論自体(76-77ページ)も、かなりず さんなものであるように見えます。というのは、この程度の議論では、血縁淘 汰や協力行動の進化も同様に否定されてしまうからです(特に77ページの最後 のパラグラフの議論)。

あ、それから、社会ダーウィニズムへの批判のところでは、「間違いは ... どのような人間行動も進化の対象になると思っていたことでした」とある わけですが、それでは 11 章、 12 章で、なにが進化の対象でなにがそうでは ないかがどう区別されているのか?というとこれは私の理解力の問題かもしれ ないですが全然わからない。あ、 11 章といえば、これは著者の問題ではな いのかもしれませんが、図 11.1 はなかなかすごいです。これで相関なり因果 関係があるといい切るのは、、、

というような調子で、書いていくといくらでも出てきますが、きりがないので あと一つ。チャペックの戯曲の題は、もちろん、「ロボット」ではありません (57ページ)。まあ、そんなことはどうでもいいですが、この註の内容自体も変 で、ロボットが自己複製能力を備えていないなら、遺伝子型を表す DNA に当 たるものを持っている必要は全然ないでしょう。「タンパク質をこねて」作る ところに「時代の古さ」を感じるのは勝手ですが、、、


Id: #b20000628001053  (reply, thread)
Date: Wed Jun 28 00:10:53 2000
In-Reply-To: b0026.html#b20000627181223
Name: 山形
Subject: 長谷川本

> 本当に思ったんですか?それとも他にほめようがなくて無理に書いたのでしょうか?

思いましたよー。別にあれは無理してほめなきゃならない書評じゃないし、扱う本も自分で 選べるから、無理に書いたりはしてません。

そんなに変でしたか? あそこに書いたように、あれもこれもという感じでまとまりがないし、 構築力は弱い本ですけれど、でも一応論点はまとめてあるように思いましたし。日本語も、 ぼけてる感じはするんですけど、そんなにおかしいとまでは感じませんでした。

でも読み込みが足りないのかもしれませんし、見落としもあるかな。完全に厳密な はなしができないのが、やっぱぼくみたいな毛のはえただけの素人の弱いとこです。まきのさん、 たとえばどんなところが気になりました?


Id: #b20000627181223  (reply, thread)
Date: Tue Jun 27 18:12:23 2000
In-Reply-To: b0026.html#b20000626112536
Name: まきの
Subject: 書評

まあ、佐藤勝彦さんの書評は、ポストモダン思想家と科学論をいっしょくたにして扱ってるあたりがそもそもいかんような気はします。

ところで、書評といえば、『進化と人間行動』の山形さんによる書評(そういえば、これは前号の記事からはたどれるけどインデッ クスのページは古い号に載ったものをさしてますね)では、なかなか微妙 な書き方をされてますが、でも、

あのへろへろな日本語とぐずぐずの論理の本を読んで、「非常に手際よくまとめられた」本だとか、あるいは

竹内的なウケねらいだけの思いつき議論はきちんと批判されて、どこまで何がはっきり言えるのかが明らかにされている。
なんて本当に思ったんですか?それとも他にほめようがなくて無理に書いたのでしょうか?

長谷川眞理子氏の「科学」の連載の文章なんかは論理はともかく日本語はそんなに変とは思わなかったんですが、この本はかなりひどいです。岩波は編集がしっかりしてるんでしょうか。東大出版会なんかだと編集者が文章を直すなんてことは期待できないから。


Id: #b20000627001129  (reply, thread)
Date: Tue Jun 27 00:11:29 2000
Name: ほつま
Subject: 唐沢俊一と『知の欺瞞』

 外で食事のつもりだったがこれで予定変更、紀伊国屋書店をヒヤカシて、岩波文庫 の品切れものなど、それから小沢昭一『日本の放浪芸』のCDボックスなどを買う。 今日の読売の読書欄で書評されていた、現代思想ケチョンケチョン本の『知の欺瞞』 (岩波書店)、レジの店員用メモに“書評出。×棚に平積みしておくこと”などと書 かれていたので、どんなもんかと見てあれば、なんと残り一冊という人気。これまで 何となくウサンには思っていたがなにしろ知識がないのでビビっていたポスト構造主 義からの足抜けの理論本として、ちょうどオカルトからの足抜け理論本にトンデモ本 の世界が売れたのと同じような感じで人は買っていくらしい。
 SFマガジンでも鹿野司さんがこの本のことを語って、「現代思想ってビデオゲームに似ている。やってるときは熱狂的にハマるし面白いけ ど、たくさんの呪文を覚えても、現実生活にはなんの役にも立たない」と評していた。・・・・・・私は(珍しく現代思想擁護をすると)、無用のものだからこ そ、ビデオゲームが大流行するのと同じく、現代思想のニーズは生じていると思う。 浅田用語、柄谷用語の二、三十をマスターし、蓮見文体のコワイロをちょいと使うよ うになれれば、これらを組み合わせていくらでもエラそうな文章、つまり役をつくっ ていくことができる。マージャンと同じなのだ。
 『知の欺瞞』で著者の科学者二人組は、ポストモダン思想全体を批判しているわけで はない。あくまでも、科学者として、厳密たるべき科学用語を人文科学や社会科学の 分野に安易に使用することのナンセンスさを語っている。現代思想嫌いの人々も、こ こをカン違いして、この本を現代思想批判のバイブルとすべきではない(と学会の本 をオカルト批判のバイブルとすべきではないのと同じだ)。ただし、ポスト構造主義 と誠実に向い合うこともせぬままに、そこでの用語をひけらかして(流用の流用だ) 森羅万象に高度な批評をしたつもりになっている利口ブリッコの思想オタクたちには イタい本になるだろうと思う。
http://member.nifty.ne.jp/uramono/dialy/diary.html
唐沢俊一さんの『裏モノ日記』2000年06月25日より引用。

Id: #b20000626112536  (reply, thread)
Date: Mon Jun 26 11:25:36 2000
In-Reply-To: b0026.html#b20000626111236
Name: やまがた
Subject: やはり人間たるもの、誠意がだいじだとつくづく感じた。

> この論争を通じて感じたことは、両者の直接の対話の欠如である。
> 互いに学びあう姿勢で、議論の場をもちたいものだとつくづく感じた。

……勝手に感じてればぁ、という感じではあるのだが。言いたいことがなくて、あたりさわりの ないオチを苦し紛れにつけたのが見え見え。この本自体が対話そのものの試みなんだってこと がわかんないかな。わかんないんだろうな。対話って、ヨイショごっこだと思ってるんだろうな。

しかし読売新聞は、著者の名前くらいきちんと書けばよいのに。


Id: #b20000626111236  (reply, thread)
Date: Mon Jun 26 11:12:36 2000
Name: 大豆生田
Subject: 読売新聞書評

読売新聞の『「知」の欺瞞』書評
Id: #b20000625225334  (reply, thread)
Date: Sun Jun 25 22:53:34 2000
In-Reply-To: b0026.html#b20000623200320
Name: くろき げん
Subject: Re: 附属高等法政教育センター・ニュースレター

ときたさん、御紹介どうもありがとうございます。さっそく、「紹介「アラン・ソーカル=ジャン・ブリクモン著『知の欺瞞』」(附属高等法政教育センター・ニュースレター第1号)」を書いた尾崎一郎氏のウェブサイトを覗いた後に、北海道大学大学院法学研究科附属高等法政教育研究センターのウェブサイトにアクセスしてみました。残念ながら「ニュースレター」に関する情報はない。しかし、「ニュースレター」という項目がウェブサイトの表紙にあるということはしばらく待っていればニュースレターの中身をウェブ経由で読めるようになるということを意味しているのかもしれません。期待して待つことにします。


Id: #b20000623200320  (reply, thread)
Date: Fri Jun 23 20:03:20 2000
Name: ときた
Subject: 附属高等法政教育センター・ニュースレター

北大法の尾崎一郎さん(http://www.juris.hokudai.ac.jp/~ozaki/index.html)が 紹介「アラン・ソーカル=ジャン・ブリクモン著『知の欺瞞』」(附属高等法政教育センター・ニュースレター第1号)
ってのを書いてるらしい。webで読めないかな?
なんでブタネコが北大法に?っていうと、http://www.threeweb.ad.jp/~suopei/newinfo/ueno/ueno_j.htmlあたりからふらふらと?
Id: #b20000623185045  (reply, thread)
Date: Fri Jun 23 18:50:45 2000
In-Reply-To: b0026.html#b20000622224905
URL: QYL01021@nifty.ne.jp
Name: 中川大地
Subject: 失礼いたしました
 ルールの方、了解していたつもりでしたが、求められてもない自己開示はウザイという常日頃の
対面世間道徳の磁場を振り切れきれず不充分な情報公開となり、すみません。自分の分際と関心範
囲を示した部分も、なんか本格的な議論からの逃げを打ってるようにもみえますしね。

 改めまして、当方は早稲田の理工学研究科の博士課程で酵母のプログラム死遺伝子を探している
寅年生まれの研究者です。世代柄、各種サブカルチャーやオタクジャンルにまつわる雑駁な社会思
想に依りつつ自己形成してきてしまった部分があり、それと研究者の端くれとしての立場とをどう
折り合いつけて仕事をしたり周囲の人間関係をマネージしたりする場面での言動をどう築いていく
かという個人的課題への糧を、ソーカルをめぐる騒動から得られるといいなというのが、我が身に
引き寄せての関心の内実でした。

 さて、他の同様の偽論文事件のご教示、ありがとうございます。
 黒木さんの目から見てソーカルの問題提起はごくまっとうで、あまり大仰に騒ぎ立てて事件視す
ることの方が異常事態というご認識だと理解いたしました。
 小林よしのりなんかになぞらえたりすると、結局そういう事態の大袈裟化に与してしまうかな。

 ともあれ勉強中の身で安易な図式化を施してしまい、失礼いたしました。
 また疑問等生じた際に、お邪魔させていただければと思いますので、その折りは宜しくお願いい
たします。

Id: #b20000622224905  (reply, thread)
Date: Thu Jun 22 22:49:05 2000
In-Reply-To: b0026.html#b20000622202800
Name: くろき げん
Subject: 今まで何度もした偽論文の話

中川大地さん、始めまして。(ですよね?) この掲示板の基本ルールは「匿名」による批判の禁止です。大事な点は E-mail address や実名 (らしき名前) を公開しただけでは、「匿名」とみなされる場合があることです。馬鹿なことを言ってしまった場合に恥をかけるだけ十分な情報を公開するようにしてください。

一般にはあまり知られてないのかもしれませんが、偽論文というのはソーカルの専売特許というわけではありません。

例えば、ラマチャンドランとブレイクスリーの『脳のなかの幽霊』には進化心理学の竹内久美子的傾向を馬鹿にするためにラマチャンドランが偽論文を医学雑誌に投稿して成功した話が書いてあります。 (これはソーカル事件以後の話のはず。)

他にも、物理学内部でも、 1930 年代にハンス・ベーテらが当時の安易な数合わせの傾向を馬鹿にするために偽論文を共著で投稿して成功したという話があります。

ソーカルの偽論文の場合は、あまりにも痛いところを突かれてしまったと感じたからなのかどうかわかりませんが、ソーカル個人に対するかなり長期に渡る人格攻撃に発展してしまいました。でも、他の偽論文の事例ではそのようなみっともない人格攻撃が続いたという話は聞いたことがありません。

まあ、いずれにせよ、『「知」の欺瞞』が出版されてみれば、あの偽論文の成功自体が論争の主要部分でないことは、はっきりしていますよね。『「知」の欺瞞』の内容は相当に穏健であり、なぜあの程度の批判を真正面から受け止めることができない人がいるのか、私は理解できません。日本におけるサイエンス・ウォーズ・キャンペーンで広められたソーカルの悪名をよく知っている人は、どんなにひどいことを言っているかと期待しながら『「知」の欺瞞』を読んでみたら全然違っていたのでびっくりしたことでしょう。


Id: #b20000622202800  (reply, thread)
Date: Thu Jun 22 20:28:00 2000
URL: QYL01021@nifty.ne.jp
Name: 中川大地
Subject: ひとつの俗っぽいアテハメの試み
 はじめましてこんにちは。
 ソーカル事件に興味があり、ときどき議論を読ませていただいている生物学徒です。
 といってもどこにでもいる一介の本読みとして以上に切実な関心ではないものですから、先に書
かれた青山さんと同様、そうそう当事者に自己投影できるものでもないところのライトな観客が、
同時代の知的トピックとして一連の話題をどう受け止めるべきか、つう点でどなたかお時間ある方
とオシャベリできるといいなあと思いまして、書き込ませていただきます。
 話題としては一段落しているところムシ返す格好になるので、恐縮なんですが。

 いえまあ、早川さんと田崎さんとかとのやりとりを拝見しながらひとつ思ったことがありまして。
 これ誰かがどこかで絶対言ってそうな気もするんですが、ソーカルのパロディ論文投稿をユルセ
るかどうかの感性って、たとえば小林よしのりを許容できるか否かってところと通底してたりしま
せんかねえ(笑)。

 ソーカルが『ソーシャル・テキスト』で騒動を起こした時期って、ちょうどよしりんの『ゴーマ
ニズム宣言』がスガ秀美とかとバトルを始めてわが国の「論壇」に横紙破り的に注目されたのと同
じくらいの頃だったでしょう。
 いずれも伝統的なマルクス主義教養が冷戦の終結によって(少なくとも知的世界に先端的な関心
を寄せる人々の間では)完璧に引導を渡され、その克服としてあらわれたはずのポストモダン的・
ニューアカ的知のあり方もまた、高度消費社会のマンネリ化とともに頽廃したモードに成り下がっ
ていたところ、そうした自動化した「モード」が本来どこかの段階で帰着すべきところの「庶民の
人生のモンダイ解決のプラグマティックなツール」にいつまで経っても結実しないことへの苛立ち
からくるカウンター・パンチって点で、よく似てると思うんです。
 僕なんかはどちらも、その小気味良さと同時代的意義はあっけらかんと認めていいと思っていて、
「サイエンスの手続の信頼性を壊した」とか「人間的に許されない」とかまで言ってしまうのは、
ちょっと世間的寛容に薄い、イカニモ象牙の塔な心象だなという感想になってしまう。

 まあソーカルの場合が違うのは、漫画家小林よしのりみたいなサブカルの位置からではなく、正
統な物理学者だったという点で、逆により強固な“権威”の側からの反動という図式も成り立つか
らでしょうが、やっぱあくまでこういうのは個人の所業として見るべきだと思うので、野家啓一氏
なんかが「非専門家を排除せんとする科学の神殿の過剰防衛」みたく陣営視して捉えるのは大人げ
ないよなあとか思ったり。

 なんにせよ、おかげで真摯な議論も始まってるのだから、あんまり目くじら立ててこんぐらいの
横紙破りの“キケン性”を云々せんでもええじゃろうという話しです。
 ここは日本だし。とりあえず平時だし(笑)。

 つうわけで、当事者に近い方の多そうなこの場にて、こういう平和ボケの許されない切迫した事
情を抱えた知的リアリティにぜひ出会い、ふやけた消費者根性を叩き直したいというのが当方の本
意。
 ご指導たまわれましたら幸いです。押忍。 

Id: #b20000619062219  (reply, thread)
Date: Mon Jun 19 06:22:19 2000
Name: 結城浩
Subject: 『幸福の王子』を杉田玄白へ登録

結城浩と申します。

オスカー・ワイルド『幸福の王子』を翻訳しました。 (もちろん)プロジェクト杉田玄白へ正式参加しています。 誤字脱字、誤訳などのご指摘を心からお待ちしています。

◆幸福の王子(HTML版) http://www.hyuki.com/trans/prince.html

◆幸福の王子(PDF版) http://www.hyuki.com/trans/prince.pdf

◆翻訳の部屋 http://www.hyuki.com/trans/

もっともっと杉田玄白が盛り上がることを祈りつつ…。


Id: #b20000615150244  (reply, thread)
Date: Thu Jun 15 15:02:44 2000
In-Reply-To: b0026.html#b20000615131252
Name: たざき
Subject: ありがとうございました

「修正の修正のページ」を作る必要はないのですね。 こっそり直しておきました。
Id: #b20000615131252  (reply, thread)
Date: Thu Jun 15 13:12:52 2000
In-Reply-To: b0026.html#b20000614165745
Name: 鈴木クニエ
Subject: どこかで修正されるでしょうが…

田崎さん、こんにちは。

訂正集を拝見してきました。…発見してしまいました。吉永吉正さんは、
たぶん吉永良正さんですよね(笑)。取り急ぎ。
Id: #b20000614165745  (reply, thread)
Date: Wed Jun 14 16:57:45 2000
In-Reply-To: b0025.html#b20000607011818
Name: たざき
Subject: 不精者の一匹狼の会・唯我論者支部の仲良し四人組

鈴木さん、黒木さん、

註の組み方等についてのご意見をありがとうございます。 膨大な註と引用をどう組むかについては、 出版社の方が最後まで努力をしてくださいました。 ドゥルーズ+ガタリの「哲学とは何か」はページの下に一様にスペースがとってあり、 そこに註が入っています。 とても読みやすいレイアウトですが、『「知」の欺瞞』の場合は、 註の割合が激しく変化するので、この方式は苦しいようです。

あと、参考文献の出だしが一段下がっているので、目当ての文献を捜す際に不便だというご意見をいただきました。 確かにそうかもしれません。

『「知」の欺瞞』への訂正・追加のページの内容もすこしずつ増えています。 お恥ずかしながら、訳者の考え違い(本文 p. 42, 43 の部分)があったことを、山形さんにご指摘いただきました。


Id: #b20000614165521  (reply, thread)
Date: Wed Jun 14 16:55:21 2000
In-Reply-To: b0021.html#b20000415183008
Name: まきの
Subject: Stroustrup interview

ええと、に紹介した Stroustrup の C++ に関するインタビューですが、日本語訳 があると聞いたので御紹介。
Id: #b20000614164617  (reply, thread)
Date: Wed Jun 14 16:46:17 2000
In-Reply-To: b0026.html#b20000614150049
Name: たざき
Subject: ええ

牧野さんのような感想はありうると思います。

また、4章でも唯我論を信奉する人の相手はしない、 というようなことを明言しているから、 すべての立場に完全にオープンというわけじゃないですね。


Id: #b20000614150513  (reply, thread)
Date: Wed Jun 14 15:05:13 2000
In-Reply-To: b0026.html#b20000614150049
Name: まきの
Subject: 失礼

下の記事はリンク先がずれてました。 こっち。こんどは大丈夫だろうな。
Id: #b20000614150049  (reply, thread)
Date: Wed Jun 14 15:00:49 2000
Name: まきの
Subject: 『「知」の欺瞞』の話

そういうわけで、『「知」の欺瞞』の話ですが、田崎さんの記事で、「今の自分の知識や理解が最終的なものである, とするのは,・・・いけない」と書かれていますが、最終章ではその姿勢が崩れていて、例えば、xx族の宇宙論は真実ではなく現代科学は真実であるといっているとしか解釈できないところとかありますね。このあたりは書かない方がよかったのではないかと私は思いました(早川さんとは反対かもしれない)。

別に本心では現代科学の理解が最終的である(あるいは、少なくとももっとも優れている)と信じていたって構わないと私は思うのですが(私も多分信じてるし)、でも、そう書いちゃうと「これはそーゆー奴が書いた揚げ足とりだから無視していいんだ」という人の助けにしかならない。


Id: #b20000613150304  (reply, thread)
Date: Tue Jun 13 15:03:04 2000
In-Reply-To: b0025.html#b20000613122246
Name: くろき げん
Subject: 精神分析の話は「なんでも3」に引っ越しましょう

『「知」の欺瞞』の話とは独立な議論になりつつあるので、フロイト、ラカン、精神分析関係の話は「なんでも3」に引っ越すことにしましょう。関係者の方々よろしくお願いします。


Id: #b20000613144147  (reply, thread)
Date: Tue Jun 13 14:41:47 2000
In-Reply-To: b0025.html#b20000613111156
Name: くろき げん
Subject: 理論物理と数学

Witten に限らず、誰かがまだ厳密な数学的定式化さえ存在しない手法を用いて数学的な非常に面白い結論を導いたとき、数学者達が、その結論もしくはその一部分を全く別の方法で数学的に厳密に証明したり、結論もしくはその一部分をよく観察してそこからどのような数学的理論の存在が予想できるかを考察したりすることは全く普通になされていることです。

例えば、 1984年に Belavin-Polyakov-Zamolodchikov による2次元量子共形場理論に関する有名な論文が出ました。そこでは数学者が興味を持っている Virasoro algebra の表現論 (Feigin-Fuchs の理論) が応用されていたのですが、数学者は BPZ が数学的には何をやっているかをすぐには理解できませんでした。しかし、その後まあ色々あって、 2次元共形場理論の holomorphic part だけを取り出した理論は代数幾何と表現論の組み合わせによって場の理論を経由せずに直接定式化可能であることがわかったんですね。その過程で土屋・蟹江の仕事は決定的な役目を果たしました。 Borcherds は共形場理論の holomorphic part に関する数学的理論として vertex operator algebra を定義して、それを用いて Moonshine 予想を証明し、 Fields 賞をもらっています。 Wess-Zumino-Wittem 模型と呼ばれるクラスの共形場理論の holomorphic part だけを取り出した理論は実は数論における保型形式論の Riemann 面での類似物であることがわかりました。 WZW 模型の holomorphic part の理論を critical level で考えるとそれが様々な量子可積分系 (Calogero, Gaudin, ...) を記述していることもわかった (この話の一般論に関する証明付きの文献はまだないと思う)。 Beilinson-Drinfeld は 10年程前からそのことを利用して Riemann 面での Langlands program の類似を遂行しようとしているらしい (部厚い草稿はあるのだが未完成でかつ未発表)。とまあこのように共形場理論の holomorphic part に関する理論は物理を離れて数学との結び付きが極めて腱固になっているのだ。

他の面白い例としては mirror symmetry の話があります。これに関しては、深谷賢治さんの『これからの幾何学』 (日本評論社) や『シンプレクティック幾何学』 (岩波講座現代数学の展開21) の第6章およびそれらで紹介されている文献を見て下さい。


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