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黒木のなんでも掲示板 (0045)

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Id: #a19990718135432  (reply, thread)
Date: Sun Jul 18 13:54:32 1999
Name: 山形浩生

結局、山野氏みたいな「科学論」とかいうのをやってる人の大部分というのは、 科学ってのは小説の一種だと思ってるわけですな。それをネタにして文学研究 みたいなのをやればいい、と。

んでもって、みんな知っているように、文学研究 ってのは実は学問でもなんでもなくて、気の利いた感想文を言いっこするものに なっていて、積み重ねとか昔との整合性とか、ぜんぜんなくていい。山野氏は、 そのなかで「作家論」とかいうのをやりたいわけで、「あいつはどこに女こしら えてた」とか「実は糖尿だった」とかいうのをつつくのがなんかおもしろかろう と思ってるってことでしょう。

「ニュートンは科学者といえるかどうか」というのも、石川淳が白樺派か、とか パラサイト・イヴはSFかホラーか、という話にすぎなくて、山野氏はなんかそこで結論 だして結論を出して生産的な話をするよりは、そういう話がウダウダつづいた、ということ で喜んで「有益な視点を提供した」とか悦に入りたいだけでしかない。

だから論点整理してあげたって仕方なくて、「あんたの科学者ってのはわれわれの 科学者というのとはちがうみたいねー」と言うのがせいぜいなんでしょうね。

が、まあ試しに:

問題となっているのは、抽象的な数学的モデル の整合性ではなく、現実に運動や生成があると云うことを、科学の教科書的なパラダイム カッコに入れて、もういちど、生活世界の現場に立ち戻って考えると云うところに あるからでしょう。山野は、こういう基本的な問いを忘れないことも重要であると 思っています。

いまの物理学は、運動や生成があることを否定しているんですか?

いまの物理学は、別に数学モデルだけで満足しているわけではなくて、実験を通じて絶えず 理論やモデルの裏付けをとろうとしているんじゃないんですか?それを無視して「いや なんとなく常識的に考えて変な気がする」と主張するのは、具体的なことなんでしょうか。

生活世界ってなんですか? たとえば車がカーブでずるずる外にすべりだしたら 逆ハンドルをあてる、というのがあります。ところが生活世界の現場の人はすべて、 最初はこれができません。外にふくらもうとするので、内側にハンドルを切って かえって車をスピンさせます。何度、「生活世界の現場に立ち戻って考えて」も これは変わらないのです。生活世界の現場の感覚は、しょっちゅうまちがるし、 往々にして実際の物理世界とは乖離しているのです。生活世界の現場が具体的 だ、なんてことはいえないのです。ちがいますか?

そもそも生活世界というのは「羊羹の断面の集合は羊羹か」などということは考えません。 生活的にはどうでもいいことだからです。そんなことを考えること自体、抽象的で 生活世界とは無縁です。ちがいますか?

羊羹の断面の集合は羊羹かどうか心許ないのは、生活世界ではそういう意味での 断面というのを厳密に定義する必要がなかったから生じている問題なわけです。 したがって、そこで各種の議論をつかって、それを厳密にしたとき、それがピンと こなくてもそれは別に生活世界の具体性に反しているわけではなくて、生活世界には あまり出てこない、ちがうレベルの話だ、ということなのです。それを「生活世界の 現場に立ち戻って考える」というのは、具体的にはどういうことなんですか (あがってもいない足をとる机上の空駄弁以外の部分では)?

あと、問いってのはさ、持つことがえらいんじゃなくて、それを解決しようと努力して初めて 意味があるんですからね。それなしに問いばっか忘れないでいたって、なんにもなりませんわよ。 ちがいますか?


Id: #a19990718015151  (reply, thread)
Date: Sun Jul 18 01:51:51 1999
Name: はまだ
Subject: 「似ている」と「同じ」というのは、全然ちがう話
傍証からきましたね。ご苦労さまです。
でもバークリーから激しく叱責されて、タール水を飲ませられると思いますね。

Id: #a19990717180054  (reply, thread)
Date: Sat Jul 17 18:00:54 1999
In-Reply-To: a0045.html#a19990717164409
Name: やまの
Subject: バークリーについて補足
>山野さんが昔の微分について調べたこと(バークリー)と、村上氏の発言は関係ないで
>すよね。

私は、あの投稿の後で、大森・村上両先生の書かれたものを図書館でかり出して
読んでみたのですが、面白いことに、大森先生の議論の建て方と、バークリーの
経験主義の間には、著しい類縁性がありましたね。大森先生には、バークリーを
念頭においた「新視覚新論」という著作があるくらいですから。
バークリーは、私たちが生活している世界に立脚して、哲学者や科学者の抽象観念を
その具體的な世界と混同しないように再三注意しています。だから、
昔書かれた物であるにもかかわらず、その英語は驚くほど平明で明晰ですね。
大森先生の文体に、バークリーと共通するものを感じました。

そこで、村上先生の例の「微分の言い抜け」ですが、これは
「羊羹の切り口の集合は羊羹ではない」という大森先生の考え方を
承けた議論だと言うことが分かりました。
つまり、或る(持続なき)瞬間に於ける物理的系の状態というのは、
  抽象観念であって、具體的な世界の状態を表しているわけではないと云う
のがその主旨でしょう。

大森さんや、近いところでは、野矢さんは、ゼノンの逆理も、別に、解析学のε
δ  論法で無矛盾な数学的モデルを構成したからと言って、それで解決したわけで
はないというお考えのようですね。問題となっているのは、抽象的な数学的モデル
の整合性ではなく、現実に運動や生成があると云うことを、科学の教科書的なパラダイム
カッコに入れて、もういちど、生活世界の現場に立ち戻って考えると云うところに
あるからでしょう。山野は、こういう基本的な問いを忘れないことも重要であると
思っています。

Id: #a19990717164409  (reply, thread)
Date: Sat Jul 17 16:44:09 1999
Name: はまだとらひこ
Subject: Re:バークリー
肝心なことが伝わってないのかと思うので、念のため。
山野さんが昔の微分について調べたこと(バークリー)と、村上氏の発言は関係ないですよね。
「今は廃れたニュートンの流率」を批判したもの(バークリー)をわざわざ探して来て、
現代の数学(数学教育)にいちゃもんをつけますかね?
それとも、バークリーの流率批判は現代数学にも通用しますか

すでに何度も紹介されてるとは思いますが、
微分の言い抜けは、昔の科学史のエピソードを語ってるんではありません。
中学校で教えている速度の説明について語っているところです。
>「中学校では微分のこのトリックが使えないので、...
> まともに考えると、これは実にひどい言い抜けでしかない。」)

それから、村上氏の対談本をよく見て、村上氏の癖をよくみてくださいね。
素人の科学に対する心情を打ち砕いて喜んでいる様を。
何かの話題の流れで、科学史のエピソードを語るのはではありません。
唐突に、あなたはこんな事を知ってますか?と話を切り出してます。
(昔のニューサイエンスものとかを探して見てください。
 そんな本は持ってないので、例を挙げられなくて残念です。)
私には「反科学」のプロパガンダとしか思えません。
ニューサイエンスのような話には、ちょっとまて(時代錯誤)と言うのが、
正しい科学史家の勤めと思いますが。
(「科学史の逆遠近法」での、生き生きとした筆の運びを見て、こいつオカルトじゃないのかと疑っています)

昔の芸人が古いギャグを続けていると思って、私は眺めているので、
もし山野さんが、晩年のジャイアント馬場のファンの感覚で
村上ファンだと言われるのなら、これ以上言うことは無いです。

Id: #a19990717161933  (reply, thread)
Date: Sat Jul 17 16:19:33 1999
In-Reply-To: a0045.html#a19990717142235
Name: やまの
Subject: 科学史への個人的関心
黒木様
私の投稿にお返事いだだき恐縮です。
村上先生の一読者に過ぎぬ私に、先生に代わって黒木様にお答えする資格はありませんが、
私の読み得た範囲内で、この掲示板の読者の皆様に話題を提供することとしましょう。

>このようなことをはっきりさせると、「ニュートンは科学者ではなかった」は驚く必要
>のないほとんど自明な主張であることがわかります。

>私は、やまのさんが (1), (2), (3) のような主張自体のどこに魅力を覚えているのか、
>全く理解できないのです

私が興味を持つという場合、やはり、ニュートンという「人間」の方なのですね。
その「人間」が見えてくると、彼が研究した事柄の内容にも興味が出てくる。
彼をして物理学の研究に赴かせたものは何であったのか、ということに関心がある
わけです。これは、物理学の教科書で「ニュートン物理」を勉強しても分かりませ
んね。

クーンのパラダイム論がわたしにとって面白いというのは、そこには、生きた人間
の営みとしての科学の歴史を見ることができるから。それが、自然科学の研究者だ
けでなく、一般読者に受け入れられたのは、専門を異にする人にも訴えるだけの普
遍性があったからでしょう。

ニュートンが、(今日我々が考えるような意味での)科学者でなかったというのは、
私にとってはトリビアルな命題ではありません。

たとえば、ニュートンは物理学の研究をやる傍ら、ダニエル書の注解を書いている。
かれの一般注には、「絶対空間は sensorium dei 神の感覚中枢だ」とありますね。
 ユニテリアンの信仰が、かれの自然哲学研究のバックボーンを為す、というようなこと
が、私には面白い。一言で云えば、現在常識となっている「科学者」像からは理解
できない、人間のあり方というものを、ニュートンを通じて知ることが出きるわけ
です。

私が科学史家から期待するのも、現在の尺度で、過去の思想家を単純に位置づけな
いことですね。歴史の研究は、現在の我々の立場を相対化する視点を与えてくれる
が故に、
貴重であると思っています。

Id: #a19990717142235  (reply, thread)
Date: Sat Jul 17 14:22:35 1999
In-Reply-To: a0045.html#a19990717065202
Name: くろき げん
Subject: Re: それ以前は、「科学者」というものは存在しなかった

なるほど。そういうことを言う方は結構多いですよね。やまのさんは、たとえば村上陽一郎が以下のようなことを言っている点に魅力を感じているのですね:

(1) scientist と言う言葉は19世紀に成立した。
(2) それ以前は、「科学者」というものは存在しなかった。
(3) ニュートンは、自分を自然哲学者と考えていた。

各主張に勝手に番号をふりました。 (このような主張に関しては、村上・黒崎対談が参考になります。)

まず、(2) について。 (1) が正しければ、

(2') scientist と呼ばれる人々は19世紀より前には存在しなかった。

という主張は自明に正しいということになる。しかし、村上氏が言いたいこと、もちろん、こんな単純なことではありません。そうではなくて、

(2'') peer review などに代表されるような、現代の科学者が採用している制度の多くが19世紀に確立され、それ以前には存在しなかった。

と言っているわけです。これも正しい主張でしょう。しかし、 (1) と (2'') の関係は間接的なものであることには注意しておくべきです。

この (2'') 自体に何か特別な魅力があるかというと、私は決してそうではないと思います。 19世紀はヨーロッパが大きな変化を遂げた時代なのですから、ことさら、現代の科学者が採用している制度の成立のみを取り出して、そのことに感動するのはおかしいでしょう。 19世紀云々というのは村上陽一郎氏の専売特許ではありません。 (脱線するので詳しい説明は控えますが、個人的にはミシェル・フーコーが書いた幾つかの本とそれ以前に読んだガロアの伝記などを比べて読むことの方がずっと刺激的な読書体験でした。ついでに、アーベルの全集を覗いてみたり。)

次に、(3) について。 (3) を述べた上で、さらに、「ニュートンは科学者ではなかった」という主張を好んでする人は結構多いですよね。科学の歴史の最大のヒーローであるニュートンを科学者ではないと言い切ってしまうその意外性が受けているのだと思います。しかし、「ニュートンを偉大な科学者である」という主張と「ニュートンは科学者ではなかった」という主張が互いに矛盾してないことには注意しなければいけません。

なぜなら、「ニュートンは科学者ではなかった」における「科学者」は「peer review に代表される制度内で科学論文を書いて飯を食っている人」を意味しているからです。「科学的業績を上げた人」ではないのです。 (対談における黒崎氏の「ガリレオやニュートンがなぜ科学者ではないのか」という質問への村上氏の回答を見て下さい。) 2つの主張が一見矛盾しているように見えるのは、単にそれぞれの主張における「科学者」の定義が異なるから、そう見えるに過ぎないのです。

このようなことをはっきりさせると、「ニュートンは科学者ではなかった」は驚く必要のないほとんど自明な主張であることがわかります。「peer review」のような制度はニュートンの時代には無かったのですから。それがびっくりするような主張に見えてしまうのは、「科学者」という言葉が何を意味するかを省略した場合に限ります。

同様のやり方で、現代の哲学畑の人たちが置かれている制度的な枠組と現在偉大な哲学者に分類されている人物が置かれていた状況の違いを強調することによって、やろうと思えば、「哲学者は19世紀より前に存在しなかった」、「プラトンは哲学者ではなかった」と主張することさえ可能ではないでしょうか?

以上のように考えている私は、やまのさんが (1), (2), (3) のような主張自体のどこに魅力を感じているのか、全く理解できないのです。他人に教わる必要があるような考え方なのでしょうか? より重要な問題は、 (1), (2), (3) のような、それ自体はつまらないと思われる主張をどのように利用しているか、もしくは、それらがどのように利用されているか、だと思います。この問題はここでの議論の本線である「相対主義的科学観がどのように広められ、そして利用されているか」に直結していると私は考えています。やまのさん(およびここを覗いている他の村上ファンの方々)にはそこまでつっこんだ議論を希望。

P.S. はまださんが言うところの「黒木さんの「微分の言い抜け」の記事」は7/10の私の記事だと思います。なお、以上の議論は、「問題提起」という回答にまつわるダブル・スタンダードの問題とも密接に関係しています。一般論として、ある種の人たちが書いたものを読むときには、こけおどしに騙され感動してしまわないように注意しなければいけないと思います。“好意的な読者”にならないように注意すべき本は結構たくさんあると思います。


Id: #a19990717093314  (reply, thread)
Date: Sat Jul 17 09:33:14 1999
In-Reply-To: a0045.html#a19990716185558
Name: 田崎
Subject: なるほど + アルキメデス

さすがは鴨さん。 そこまで書いていただけると、説得力があり、かつ建設的です。

アルキメデスの論法にピントがあっていない方のために簡単にフォロー。 高木の解析概論 pp. 86-87 を見て下さい。(とても簡単です。) 一文だけ引用すると

このような精密論法はギリシァ数学の一つの特徴であったのだが、 17, 18 世紀における近世数学の草創期には、 そこまで行くいとまがなくて、 19 世紀も半ばを過ぎた後に至って、 ようやく復興されたものである。
すごいですね。(←凡庸な感想) 「いとまがなくて」というさりげない語感がまたよい。
Id: #a19990717065202  (reply, thread)
Date: Sat Jul 17 06:52:02 1999
In-Reply-To: a0045.html#a19990717012139
Name: やまの
Subject: Re:バークリー
浜田さん、お返事どうも有り難うございます。
仰るとおり、dtという記号そのものは、バークリーやニュートンは使っていませ
ん。
「もしdt≠0ならば」
と言うところは、正しくは
「If the increments were something」
という言い方です。

ニュートンとライプニッツの間では微分法の発見について
先陣争いがありましたが、バークリーの批判は、その両方に
あてはまると思います。

>こなみさんの「山野さんが村上先生のどんなところに魅力を感じているか」
>のほうもお願いしますね。

科学史の大局的な捉え方には学ぶ点が多いですね。
たとえば、scientistと言う言葉は19世紀に成立した
という記述など。それ以前は、「科学者」というものは
存在しなかったという指摘。(ニュートンは、自分を自然哲学者と
考えていたことなど。)

ヨーロッパよりも日本のほうが
工学部を総合大学に設置したのは先であること
そのために、ヨーロッパでは科学と技術は、もともと別個の概念で
あったが、日本では、最初から「科学技術」とひとまとめに
されていたことなど、社会学をやっている人には常識かも知れませんが
こういうことは、村上さんの本で私は知りました。

Id: #a19990717012139  (reply, thread)
Date: Sat Jul 17 01:21:39 1999
Name: はまだ
Subject: 「微分の言い抜けだ(C)村上」をバークリの真似だとするのは、かえって村上大先生に失礼でしょう。
村上流「微分の言い抜け」が、そもそもバークリーが本家
というのに疑問を感じただけで、細かいことを言っても仕方がないんですか。

13節「The rule for fluxions of powers attained by unfair reasoning」は、
ニュートンの流率の記法・計算法の矛盾を言っていて、山野さん御自身の書かれた
>ここで、昔の微分法というのは、dt=0 と置いて、
>t=1 の時の速度を 2 とした。
という2行には対応してますが、山野さんが書かれた他の部分には対応してませんよね。
そもそも時間とか速度もでてこないし。
山野さんはunfair reasoningというのを現代の微分にも使いますかね?

私の乏しい知識からすると、ニュートン流の記法からライプニッツ流の記法に変わったのには、
ひとつにはバークリーの流率批判があったみたいです。(いいかげんな紹介で鴨さんに怒られそうだ ^^; )
だから山野さんは、ここの説明でdtなんて書いてはいけません(笑)

ついでながら、村上大先生が微分の言い抜けの後に書いている、
>幅のないものを幾ら足しても、ゼロはゼロでしかないのではないか、
>というような幾何学における伝統的な疑問とそっくり同じ問題がここでも持ち上がる。
の「幾何学における伝統的な疑問」の例の一つとして、バークリーを挙げるのは、正しいと思います。

黒木さんの「微分の言い抜け」の記事や、
こなみさんの「山野さんが村上先生のどんなところに魅力を感じているか」
のほうもお願いしますね。

Id: #a19990716235409  (reply, thread)
Date: Fri Jul 16 23:54:09 1999
In-Reply-To: a0045.html#a19990712191640
Name: やまの
Subject: Re:Berkeley
はまださんへ

レスをどうも有り難うございます。バークリーについては、だいぶ前に、大学の
1、2年生相手に微積分の講義をしたときに調べたことがあり、その記憶に基づい
て書きました。ご質問の件ですが、それは、Analyst の13節で、x^n の微分を求めるという文脈です。

Let now the increments vanish, and their last proportion will be 1 to
 nx^n. But it should seem that this reasoning is not fair or 
conclusive. For when it is said, let the increments vanish, i.e. let 
the increments be nothing, or let there be no increments, the former 
supposition that the increments were something, or that there were 
increments, is destroyed, and yet a consequence of that supposition, 
i.e. an expression got by virtue thereof, is retained. Which, by the 
foregoing lemma, is a false way of reasoning. Certainly when we 
suppose the increments to vanish, we must suppose their proportions, 
their expressions, and everything else derived from the supposition 
of their existence to vanish with them. 


鴨さんへ

この間は、いろいろとご批判を賜り、有り難う存じます。
鴨さんは数学史がご専門の方でしょうか?
そうなら、私の話などは素人のあいまいなものですので、
どうかご放念下さい。

ただ、どうも誤解されているようなので、ひとこと申し上げますが、
私が云ったのは、
「無限少量やフラクションに訴えるニュートン・ライプニッツ時代の微積分法が
論理的に難点を含むことを、バークリーが指摘した」という数学史上の事実であっ
て、そのころの微積分学が、コーシーの時代の解析学と「断絶している」などとは
一言も云っておりません。その点、さらに注意深く、私の投稿を読まれることを希
望いたします。

Id: #a19990716185558  (reply, thread)
Date: Fri Jul 16 18:55:58 1999
In-Reply-To: a0045.html#a19990712160132
Name: 鴨 浩靖
Subject: Re: 一般読者の理解を助けるためには有効だけど、数学史としては粗雑すぎる

始めて微分積分学を学ぶ人の理解を助けるには有効だけど、「微分の言いぬけ」を論じる文脈では、有害な粗雑さです。ε‐δ論法が19世紀に突然に生まれたかのような誤解から、「ニュートンの数学とコーシーの数学には断絶がある」と短絡的に理解して、悪しき相対主義に行ってしまうのを助長してしまうではないですか。

パラダイムうんぬんを論じる文脈で無限小量とε‐δ論法について語るなら、せめて、「アルキメデスの方法」ぐらいのことは、視野に入れておかないと困ります。「アルキメデスの方法」とは、アルキメデスの円錐曲線論で使われている、今日の区間縮小法に相当する論法のことです。ε‐δ論法は19世紀に何もないところに突然に生まれたのではありません。古典ギリシア時代に、すでに、原型はあったのです。

コーシーの時代の数学者は、「アルキメデスの方法」を知っていたのでε‐δ論法に到達できたのかどうかは、私には判断する知識はありませんが。


Id: #a19990716135306  (reply, thread)
Date: Fri Jul 16 13:53:06 1999
Name: まきの
Subject: ハミルトン力学系の展開

済みません、また宣伝です。えー、数理科学 1999年8月号は上記「ハミルトン力学系の展開」となってます。私は数値解法の話をちょっとだけ手伝ってます。

ついでだからもうちょっと宣伝。 7/20 日 NHK 総合夜10時からの「月着陸に命をかけた男たち」(なんかはずかしい題名ですね)では、小久保君達が作った月形成のシミュレーションのCGその他が使われるようです。 NHK のことなのでどんなふうに使われるかは見てみないと分からないので、なかなか不安なものもあるのですが。こういった科学番組とかが、科学の普及みたいなことに貢献しているのか、それとも科学の魔術化を進めているだけなのかってのは、どうなんでしょう?


Id: #a19990716122443  (reply, thread)
Date: Fri Jul 16 12:24:43 1999
URL: http://www.cs.tuat.ac.jp/public/cs96068/
Name: きしもと@農工大
Subject: コンピュータ屋の「パラダイム」
きしもと と申します。コンピュータ(科|工)学の学生です。
システムプログラミングとかの周辺に興味があり、
今は関数型プログラムの勉強をしています。

コンピュータ屋は「パラダイム」を結構多用します。特に、
計算モデル論とかプログラミング論とかで使ってます。

ありがちな文の例としては、
「構造化からオブジェクト指向へ、というパラダイムシフト」とか
「集中処理から分散処理へ、というパラダイムシフト」とか
「コントロールフローモデルからデータフローモデルへ、
というパラダイムシフト」とか、

方向性を持ち、世代をなす、枠組みとなるモデル、という感じ、
あるいは、局所的一時的ではなく、全体的継続的な流行、という
感じでしょうか。

「パラダイム」って言葉、そんなに恥ずかしい言葉だったとは...と、
最近知って、結構ショックでした。


Id: #a19990716120658  (reply, thread)
Date: Fri Jul 16 12:06:58 1999
In-Reply-To: a0045.html#a19990716015616
Name: 田崎
Subject: しあん(さらっと書くつもりが、ちょこっと長くなった)

「絶対に本当のことなんてわからない」というのは、幼稚園生や小学生でもわかっている理屈ですよね。 それに、哲学的な色彩をかぶせてこの状況でもち出すのはなぜなのでしょう?

真実の存在を疑い続けるのは一つの立場だろうけれど、 それなら、どんな証拠を見せられたって、「それは私の脳への一定の刺激に過ぎず、 客観的な証拠とはいえない」と言い続ければいいわけでしょう?

そういうガキの遊びみたいなことはやめて、 たとえ間接的な証拠からでも何がわかって、何がわからないかを真摯に考えようというのが、 健全な人間の生き方だと思います。 シアンに関して(十分に信頼できる)結論が出るか出ないかは、 純粋に証拠の持つ信憑性に関する実際的な問題で、 データや資料と格闘し様々な追試を誠実に行うことでのみ、 少しずつ結論に到達し得る性質のものです。 書斎に座って葉巻をくゆらしていても何一つわからない。 汗水たらして一生懸命に調べた結果、入手し得るデータの範囲で(かなり信頼できる)結論が出ることもあれば、 出ないこともある。 でも、それは「哲学」の問題ではなく、純粋に技術的な問題です。

もし、全てを「哲学」の問題にしてしまえば、逆に話は簡単で、 どんなに設備を改善したって、所詮すべては「ローカルノレッジ」に過ぎない。

でも、一番気に入らないのは、「それでもシアンがあったのかと・・・」 と超過激な事を書いていても、それは無茶だといわれると、 「いや、これはあくまで・・・・としての話で、私はちゃんと設備を改善して ローカルノレッジのローカルさを少しでもグローバルに近づければいいといっているので ありまして・・・」という平凡な結論を引っぱり出すための抜け道が、この文章には用意してあるようにみえること。 でも、そういう話をしたいだけなら、別に「ローカルノレッジ」だの「デカルト」だのを もち出す必要はまったくないでしょう? (こういう「ナイーヴな」反論を書くと、どういう再反論ができるのかも知っているつもり。)


Id: #a19990716015616  (reply, thread)
Date: Fri Jul 16 01:56:16 1999
In-Reply-To: a0045.html#a19990715155553
Name: 河本孝之
Subject: >和田先生へ

 成定氏の診断は、「この事実には確実な真相があるはずなのに、これまでの水質検査だけでは不十分だ」という考えを、デカルトの名前と結びつけています。まずデカルトの思想を上記の考えと結びつけて話すこと自体が哲学史の話として誤っていると思いますが、それはまた別の話です。
 私たちが知る水質検査の結果とか報告などを「何らかの意図でもって歪められているのではないか」「検査した人や伝達する人の主観的な解釈が介在しているのではないか」と疑えば幾らでも疑える、しかし事実とは元来そのようなものなのだ、と成定氏は言いたいようです。どんな水質検査が可能で、その中からどんな検査をしようとしたか、という当事者の作業環境とか思惑、推論、先入観などによって検査結果は「作られ」、あの川に関する事実として報告される・・・これが「事実」なのであって、それ以外の「真相」などはない、というわけです。それゆえ、それでも真相があるはずだと考えるなら、その人は確実性とか真相というありえないものを追いかけて悩んでいるだけだということになるのでしょう(デカルトのことは忘れて下さい)。

Id: #a19990716010830  (reply, thread)
Date: Fri Jul 16 01:08:30 1999
In-Reply-To: a0045.html#a19990715201205
Name: くろき げん
Subject: Re: 教育と社会構成主義や相対主義を結び付ける事

以下のリンク集が便利だと思います:

私自身は、「仮説実験授業」と「社会構成主義」との(直接的な)関連は存在しないと理解しています。だから、この議論で「仮説実験授業」というキーワードを強調するのは誤解を招くのでよろしくないと思う。

大事なことは(そしてわたなべさんが真に気に病んでいることは)、それらの関連ではなく、教える側が教授法だけではなく科学自体を理解していることの重要性をないがしろにしたり、「天下り式に知識を押しつけない」という考え方を極端なまで強調する傾向が存在していて、そういう傾向と相対主義的科学観が安易に結び付けられているのではないか、ということだと思います。


Id: #a19990715201205  (reply, thread)
Date: Thu Jul 15 20:12:05 1999
URL: watanabe@tohoku.ac.jp
Name: わたなべ
Subject: 教育と社会構成主義や相対主義を結び付ける事
特に「仮説実験授業」に限った事ではありませんが、理科教育MLの 97年8〜10
月にかけての記事は「教育と社会構成主義や相対主義を結び付ける事」に関連
した話題がテンコ盛りです。記事の題目のリストを上げると、以下のようなも
のです。

   多くの理科教育プロパーのもつ科学論
   「新しい科学論」について
   相対主義的科学観について
   アリストテレスの自然観
   科学における相対主義
   アリストテレスと優生学と原発
   事実の理論負荷性
   新しい理科教育パラダイム
   科学と技術と理科教育
   科学と技術は切り離し得るか
   教育課程審議会の答申内容について
   朝永振一郎博士の量子力学教科書

また、98年9〜11月の、以下の題目の一連の記事も興味深いところです。

  【論文の紹介】菅野禮司
   状況的認知派と教育構成主義派
   シンポジウム「科学史と教育」
   ある科学論者の科学者観

なお理科教育MLの記事は http://rika.ed.ynu.ac.jp/ で公開されています。

Id: #a19990715160159  (reply, thread)
Date: Thu Jul 15 16:01:59 1999
In-Reply-To: a0045.html#a19990715155553
Name: 田崎
Subject: シアン

掲示板はお休み中の田崎です。 和田さんの記事をそのままポストしてしまいましたが、 シアンの件に最近触れていらっしゃったのは、黒木さんですね。 問題の文章はこのページの最後の方に現れます。 岩波の講座の中の解説文のようですが、私の読む限りでは、「認識論的な」議論と、 実際的な問題を絶望的に混同している典型例だと思います。
Id: #a19990715155553  (reply, thread)
Date: Thu Jul 15 15:55:53 1999
Name: 和田 純夫
Subject: 仮説実験授業

・私は牧野さんの文章を少し誤解していたようです。いずれにしろ、情報をありがとう 御座いました。

・「仮説実験授業を社会構成主義と安易に結び付ける言説がある」という点について、 もう少し詳しく教えていただけないでしょうか。私に影響力があるとは思いませんが、 皆さんが情報を共有していれば、何かの役にたつかも知れません。 (実は私の所属している物理学教室に、きちんと学問を教えない授業が増えているとい う危機感をうったえる高校の先生からのメールがきたことがあります。)

・N氏の、「それでもシアンがあったのかと問う人は、デカルト的・・・」(よく覚え ていませんが、数日前の田崎さんのメッセージを見てください)という文の意味を、ど なたか解説していただけないでしょうか。


Id: #a19990715110018  (reply, thread)
Date: Thu Jul 15 11:00:18 1999
URL: watanabe@tohoku.ac.jp
Name: わたなべ
Subject: お題目さえ唱えれば大丈夫、となると困ってしまう
私も本来の仮説実験授業とは「社会的構成主義」とは縁遠いものだと思います。

本来この教育法は、「妥当でない仮説を排除させるというプロセスを繰り返す」
という極めて重要な部分に関して教師の力量が要求されます。「科学音痴なの
で自身を失いかけていたけれど、仮説実験授業なら大丈夫!」なんてなまやさ
しいしろものではないはずです。

しかし、板倉氏の考えから離れて安直なマニュアル化した「仮説実験授業」が
広まると、「妥当でない仮説を排除させるというプロセス」はどこかに行って
しまい「学問的な解釈について先生が積極的に指導をしない」という事になっ
てしまうのではないかと懸念しているわけです。

また、「天下り式に知識を押しつけない」という考えを安易に社会的構成主義
に結びつけたような現場の教師の言説を目にする機会もあり、気にかかってい
ます。

Id: #a19990714210603  (reply, thread)
Date: Wed Jul 14 21:06:03 1999
In-Reply-To: a0045.html#a19990714173341
Name: こなみ
Subject: 仮説実験授業の現在

法律家さんの指摘をうけて、わたなべさんの挙げてくれたページを 覗いてみました。

確かにもともとの 板倉聖宣氏による説明によると、仮説実験授業においては、

「科学の名に値するもの」というのはどんなものでしょうか。 「基礎概念が客観的に確立していて、 そこで問題にする理論の元になっている法則の真実性が 実験的に確立されているような学問体系」が 「科学」と呼ばれうるものです。
と、およそ構成主義や相対主義とは縁遠い主張が述べられています。

ところが、 道徳の授業「小さな勇気こそ」 を見ると、仮説実験授業というのが安直なマニュアルになっていっている ようにも思われます。

あるいは これ なんかを見ると、理科を教える力量で困難を感じていた教師が、 自分で自然科学を学ぶことによって理解を子供たちに伝える力を もつという方向ではなく、仮説実験授業という教授法によって力を付けて、 その信奉者になっていったというプロセスが窺われます。

 私は底抜けの科学音痴でした。
でも、仮説実験授業で「問題→予想→実験」を繰り返しているうちに、 そのたくみな構成で、ひとつの科学の原理・法則が理解できるように なりました。 ということをこのページで伝えるのは、困難です。もし、 興味がありましたら、「仮説社」へ連絡して、仮説実験授業〈ものとその 重さ〉〈バネと力〉などを 読んでみてください。
普通はこういう教科書外の内容をするのは、理科・科学の得意な教師 たちです。ところが、仮説実験授業をする教師には「自分は教科書では うまく楽しく教えることができない」だから、「自分でもわかる仮説 実験授業をする」という人もかなりいます。
仮説実験授業で教えている本人も自然科学を理解していった のならいいのだけど、そうであればどこかで自分自身の方法論を 身に付けていっていいはず。 上の記述を読むと、仮説実験授業で理解した知識は、 「理科・科学の得意な教師」を作り出さないで、その閉じた世界で 生きているかのように思えます。

まあ、教師というものは、 ちょっと自分の力に不安を抱きはじめると底無しに落ち込む商売でもあり、 何かにすがりたい心理に駆られるものではあるのです。教師集団としての 心理もグループを作りやすいように思います。 だからわりとカリスマや、カリスマによって提唱された方法論が 人気を集めやすい。理科、社会では板倉聖宣、数学では遠山啓の 水道方式、音楽では丸山亜季や林光の作品など。

もっとも、上に書いたような指摘はそれほど大きな問題ではないですね。 まずはともあれ生き生きとした授業をやってくれる熱心な教師であることは 結構なことだし、それなりに健全な努力を先生たちがしてくれている ことを貶してはいけない。

わたなべさんが挙げたリストと懸念で気になるのは、教育学の最近の 構成主義的傾向と仮説実験授業とがみょうな結びつきをするんじゃないかと いうことですね。ただ、 目次だけ読んでみても、そのへんの関連がよく分からない。 田中さん自身は STS に関する一定の批判的見地を保っているのかも 知れません。問題点を取り上げて一章を費やして論じているらしい。 とりあえずはかみつくほどのものでないという気がしますが、 教育学部の最近の一部の風潮には警戒すべきものがあるので、 気にはなります。


Id: #a19990714194745  (reply, thread)
Date: Wed Jul 14 19:47:45 1999
Name: 浜田寅彦
Subject: 大学生の数学力の調査
この話題が出てませんね。今日たまたま数学セミナー8月号を手に取ったら、
文系の大学生を中心にした調査が載ってました。

結論としては、偏差値の高いといわれる一流の大学(文系)を出ていても、
小学生に算数を教えることができない者が、例外が数例(誤差)ではなく、
ある程度の割合でいるということです。
みなさんも、記事に出ている算数の問題を見て、腰を抜かしましょう

Id: #a19990714173341  (reply, thread)
Date: Wed Jul 14 17:33:41 1999
In-Reply-To: a0045.html#a19990713124525
Name: 通りすがりの法律家
Subject: 仮説実験授業って
理科教育の専門家が多数見ておられるであろう掲示板に法学者にすぎないものがコメントするのは
恐縮ですが、板倉氏の仮説実験授業について、腑に落ちない記述があるのでコメントします。

ワタナベさんは、 

ただし、最近の教育現場で、「生徒に実験をやらせ自由に議論をさせるが、
| その学問的な解釈について先生が積極的に指導をしない」という授業が行な
| われているという話 

をうけてそれを

「1963年に当時国立教育研究所にいた板倉聖宣氏が提唱した仮説実験授業ですね。
現場の教師の中にも信奉者がいて仮説実験授業のサークルが各地に作られたり
もしているようです。」
と述べておられます。

私が知る限りでは、板倉氏の仮説実験授業とは、教師が構想した実験計画を学生に伝え、それに対する
予想(仮説)を建てさせ、次にそれを実施し、妥当でない仮説を排除させるというプロセスを繰り返して、
学生に伝えたい「原理・法則」を了解させようと言うものです。これは、「新科学論者」たちが嫌う、健全な科学
教育だと思いますがどうでしょうか。「原理・法則」を天下りに教えるのではなく、「論より証拠」で経験に照らして
伝えて行くわけで、教師の側が「原理・法則」をよくわきまえていないと実施不能な教育方法だと思います。
板倉氏がこの方法を考案されたは、そもそも昔から漫然と「子供に実験させることを通じた科学教育」といった
スローガンが唱えられながらそれが全く効果を持たなかったことに対する批判からだと言われています。
だいたい、板倉氏の著作を見れば氏が「社会的構成主義」と対極の、よく「科学主義」と意味不明な悪罵をなげかけ
られない方だということは明白だと思うのですが。それとも、エピゴーネンがそれを曲解してるんでしょうか。

Id: #a19990714043956  (reply, thread)
Date: Wed Jul 14 04:39:56 1999
In-Reply-To: a0045.html#a19990714033327
Name: 河本孝之
Subject: >伊勢田さんへ

 まずはご返答いただき、ありがとうございます。浜田さんのご質問は、私なりに解釈すると、(1')ポストモダニズム(または15年ほど前に日本で流行した、あの昔懐かしき一連の言説。そういえば「言説」という語もフーコーの翻訳書等で流行したのではないでしたか?)のラインに沿って、科学を一つのイデオロギーとして強調し、かつ相対化しようとする人々が新科学哲学の主張を引き合いに出すことについてどのように考えるか、という質問と、(1'')科学哲学における科学方法論は自然科学について descriptive な研究をするのか、それとも prescriptive な研究をするのか、(1''') desctiptive であれ prescriptive であれ、そのような研究を現在の科学哲学者はすべきだと考えているのか、という三つの質問に分かれると思います。
 伊勢田さんの、規範的であるべきかどうかについては Yes というお答えは、哲学としての科学哲学が、現行のであれなかれ自然科学という知識体系(あるいは哲学者が理想化した知識の体系)がもっているルールもしくは条件を探求するというふうに理解してよいでしょうか? したがって、(1''')について Yes、(1'')については、descriptive な研究は Yes、presctiptive な研究については、自然科学の正確な理解に基ずかず思弁的な方法論を展開するなら No ということになるかと思われます。

 
Id: #a19990714035225  (reply, thread)
Date: Wed Jul 14 03:52:25 1999
In-Reply-To: a0045.html#a19990713083651
Name: 河本孝之
Subject: 科学論ユーザー

 和田先生にご提供いただいた事例は、新科学哲学の主張をある程度(村上先生の場合は「ある程度」どころではありませんが)までご存じの方が述べられている場合と、それに乗っかって日頃から自然科学に帰せられている「客観性」とか「合理性」を「それほど大したことはない」と言いたいだけの方が科学論ユーザーとしておっしゃっている場合に分かれるのではないでしょうか。
 後者の場合には、何か思想として重大な主張がなされていない限り、科学哲学の研究者としては、「科学哲学ではこのような考え方だけではなく云々」とわざわざ論点を詰めようとする必要は感じないでしょう。巷の言論が専門の学術的観点からみて明らかに狭すぎるかあるいは広すぎる解釈をしているからといって、一つ一つ訂正していてはきりがありません。ただ、「科学哲学の或る考え方によると・・・」という切り出し方で議論をされる方に科学哲学の議論を挑むなら、そのかたを「或る程度は新科学哲学の主張に沿ってものを考える人」だと仮定して対話してゆく他はありません。そして科学哲学における他の主張、論理実証主義や構成主義的経験論といった見解を出していって、対話の相手が彼の主張のよりどころである新科学哲学に同意するのであれば、科学哲学の話としては、その方を新科学哲学を支持している方だと見做してよいでしょう。
 このような言説の政治的な含意が何であるかは、日本の科学哲学の中で積極的に議論されてきたとは言えないと思います。一つには(私の指導教授もそうですが)、フランスの思想とりわけ今世紀後半の構造主義やポストモダニズムに対して敵愾心どころか哲学的な興味すらないという方が多いからだと思われます。私のかつての指導教授は、ジャック・デリダどころかリチャード・ローティすら「彼は哲学者というより評論家だ」と評されていました。
 いずれにせよ、科学論ユーザーの言説にどのような政治的含意があるかは、彼らがどのように全共闘や安保闘争と関わったか(あるいは関わらなかったか)を理解しない限り、はっきりしないと思います。そしてこのように言える限り、社会的構成という概念でもって分析すべきなのは、自然科学者のもつ思想であるよりもまずこうした科学論ユーザーのもつ思想ではないかとも思えます。

Id: #a19990714033327  (reply, thread)
Date: Wed Jul 14 03:33:27 1999
In-Reply-To: a0045.html#a19990713075312
Name: 伊勢田哲治
Subject: 日本の科学哲学

黒木さんへ
英米の科学哲学の現状を知る目安にPSAのプログラムを使った手前、
>日本の現状はどういう感じなのでしょうかね?
というのにはやっぱり日本科学哲学会の大会のプログラムを紹介することになり ましょうか。ただ、日本の場合、英米系分析哲学一般をカバーする学会が無いため、 この学会が分析哲学全般の受け皿になっており、狭い意味での日本の 科学哲学の動向の目安としてはちょっと不適当かも知れません。英米での科学哲学の 科学者にたいするうけですが、まあ物理学の哲学や生物学の哲学では、「当該科学に 素養の在る哲学者」と「哲学に関心の在る当該分野の科学者」との間で一定の協力 ないし交流は成立していると思います。e-Print Archiveのquant-phのところを見てみましたが、科学哲学者ではAbner Shimonyの論文とかが入ってるみたいですね。

河本さんから質問いただいた
(1)「科学批判」のために科学哲学をするとか、「ありうべき科学」を模索する規範を示す任を科学哲学が負うとかいう話。
については、浜田さんがもう少し詳しく説明してくれないとなんとも言えないんですが。 科学哲学が規範的であるべきかという問いにはYesと答えます(ただしこれは 「規範的」という言葉の意味をちゃんと定義しないとあまり意味のある言明では無い)が、浜田さんのいう「ありうべき科学」というのが現在の科学とまったく無関係に 天下りに出てくるものとしてイメージされてるなら、そういう意味で規範的で あるべきではないと考えています。


Id: #a19990713204214  (reply, thread)
Date: Tue Jul 13 20:42:14 1999
In-Reply-To: a0045.html#a19990713083651
Name: まきの
Subject: F=ma

が共通であるとの認識をもっていたと読み取れる箇所はありませんでした
と和田先生は書かれていますが、これは(昨日お話ししました通り)当然のことであるように思います。そもそも運動方程式自体に全く言及していないのですから。「和田先生がされているような議論」というのは、 F=ma がどうというよりも和田先生の「世界」論文全体での主張についてです。

まあ、例えば古典力学と相対論の場合だと、それらが「共約不可能」というのは結局「質量」とか「時間」の意味が変わっている(拡張されている)ということをいっているだけになってしまうと私は思います。で、これは「なんら変わっていない」ということをいい張る人はだれもいないでしょうから、これ自体としてはまあ(黒木さんが文句を付けるような意味で)「当たり前」のことでしょう。さらにいえば、現在の時点でみれば相対論が古典力学(のうち「正しい」部分)を含み、それを拡張したもの、「より優れた」ものになっているということにも反対する人は、、、いるんでしょうかね?

で、「社会構成主義」の主張は、(多分)例えば「しかし、相対論が出てきたばかりの時には、それは古典力学との間での優劣ははっきりしなかったであろうし、そのときにどちらをとるかは社会的な要因があったはずである。たまたま社会的な要因に従ってどちらかに研究者が集中すれば、そちらのほうが成果をあげるとかそういう効果もあるんだから、現在正しいとされているからといって、、、」というようなことではないかと思います。

こういう見方に、意味がどの程度あるかはやはり時と場合によると思います。例えば「古典力学と量子力学」という選択と、「ビッグバン宇宙論と定常宇宙論」という選択、あるいは、ガンマ線バーストの起源に対する様々な説の間の選択では、まあ信頼性の程度が違うし、それに応じて「社会的」要因が果たす役割も違うというのは明らかなことであると私には思えます。そういうのがすべて同じレベルで「社会的構成」であるというのは、まあ「社会」というのをすごく広くとる(実際、 Latour や Callon の場合の「社会」ってのはそういうなんでもありなものみたいですし)ならそうなんだけど、やっぱりそういうだけではあんまり意味がないような気もします。

というわけで、何がいいたいのか自分でも良く分からないですが、例えば「社会構成主義」というのを「科学理論の選択というのは全く社会的、恣意的なもので、データとか実験なんてのは関係ない」という主張であると理解したとして、それに対して「いや、科学では常にデータや実験でちゃんと理解が進んでいるんだ」と主張するってのはあんまり有効な方策とは思えないということです。「科学」という名前(とそれなりの権威)があるもののすべてが同じように信用できるわけでも、あるいは信用できないわけでもないので。


Id: #a19990713124525  (reply, thread)
Date: Tue Jul 13 12:45:25 1999
URL: watanabe@tohoku.ac.jp
Name: わたなべ
Subject: 仮説実験授業
|  ただし、最近の教育現場で、「生徒に実験をやらせ自由に議論をさせるが、
| その学問的な解釈について先生が積極的に指導をしない」という授業が行な
| われているという話 を聞き、それがどの程度に一般的なものかわからないな
| がらも、「ウィッグ史観の排除 」あるいは「社会構成主義」と関係があるの
| かと気にはなっています。(すでにこの掲示板ではかなり議論されたことか
| もしれませんが。)

1963年に当時国立教育研究所にいた板倉聖宣氏が提唱した仮説実験授業ですね。
現場の教師の中にも信奉者がいて仮説実験授業のサークルが各地に作られたり
もしているようです。仮説実験授業の紹介や、それらのサークルの活動に関す
るホームページとして以下のようなものがあります。

    http://www.kasetu.co.jp/
    http://www.nnc.or.jp/~ozaki/kasetu.html
    http://www.synapse.ne.jp/~tabira/kasetsu.html
    http://www.aianet.ne.jp/~yokoyama/6kasetutowa2.html
    http://web.kyoto-inet.or.jp/people/osugizin/kasetu/kasetu.htm
    http://w3.mtci.ne.jp/~abetaka/kyoka/kasetu.html
    http://www02.u-page.so-net.ne.jp/za2/gakisen/
    http://www2.nsknet.or.jp/~mshr/kasetu/kasetu.htm

「仮説実験授業」と「社会構成主義」との関連について私はよく知りませんが、
福岡教育大学教育学部理科教育講座の田中浩朗氏が STS 教育や仮説実験授業
に関する授業を行なっており、資料の一部を以下の URL で公開しているので、
御参考になるかもしれません。

    http://www.age.ne.jp/x/tanakahi/zyugyou/

私自身は「生徒に実験をやらせ自由に議論をさせる」のは授業に興味を持たせ
るつかみとしては良いし、自分の頭で考える積極性を養う上では有効だと思っ
ています。

しかし、「学問的な解釈について先生が積極的に指導をしない」というのは良
く言えば「押しつけの無い楽しい授業」かもしれないが、積極的に議論に参加
しない生徒には何も考えずにボーっとすごさせてしまう結果にもなりがちです。

また、「天下り式に知識を押しつけない」と言えば聞こえは良いですが、先人
が築いた知識の体系に触れる機会を奪う可能性もあります。そういう意味では
仮説実験授業は「反ウィッグ史観」の信奉者に支持されそうですね。私は良い
意味での「ウィッグ史観」を与える事も重要だと思っておりますが。

ともかく、仮説実験授業を実践するにあたっては、「生徒の自主性を重んじる」
という大義名分のもとで「何も指導しない無責任教育」になってしまわぬよう、
かなりの努力と注意が必要だと思います。

さらに、現実にこなさなければいけないカリキュラムの内容全てについて実験
と議論をさせている時間的余裕や教材費の余裕があるかといった事も問題です。

「仮説実験授業」に限らない事ですが、メリットやデメリットについてきちん
と把握した上でよく考えて慎重に実践するなら良いのですが、「私達には仮説
実験授業があるから大丈夫」のような事が信仰のようになってしまうのはちょっ
とまずい事のように感じています。(教育に王道無し)

Id: #a19990713083651  (reply, thread)
Date: Tue Jul 13 08:36:51 1999
Name: 和田 純夫
Subject: 通約不可能性、パラダイム・シフト論の広がり

(A)牧野さんが指摘したファイヤアーベントの問題の箇所を読んでみましたが、彼が 、F=maは共通であるとの認識をもっていたと読み取れる箇所はありませんでした。 クーンも同様ですが、具体的に相対論のどの式をどのように解釈しているのかがわから ない文章です。

 もし彼が正しく理解していたとして、それでもあくまでも通約不可能であると主張す るのなら、次に問題になるのは、そのように拡大解釈された通約不可能性が、近代科学 の発展が累積的でない(包摂的でない)根拠になるかという点です。  少なくとも私にとっての最大の関心事はそこにあり、その点を忘れた通約不可能性の 定義についての議論は、あまり意味があるとは(私には)思えません。


(B)話が一、二週間ほど戻りますが、私が、「このような科学論(パラダイム・シフ ト論)が、文科系の人々の間で一定の広がりをもってきた」と考えるようになった根拠 をあげておきます。

(1)「一冊の本」(朝日新聞社)1997年10月号、川勝平太(早稲田大教授) 「トマス・クーンが「科学革命の構造」を著して以来、自然科学的知見が時代に制約さ れた特定のパラダイムに立脚していることが知られるようになり、いわゆる「自然法則 」に疑義がもたれるようになった。それは自然科学に客観性の根拠をもとめる社会科学 に影響を与えないわけにはいかない。」

(2)「イリューム」(東京電力の情報誌)1998年20号、山崎正和(劇作家、東亜大学 大学院大学教授)

「・・自然そのもののなかに法則があって、科学は忠実にそれを読み解いている、とい うような素朴実在論は現代でははやらない。昨今の科学者は、科学もまた人間の歴史的 な知の構成物であり、他の学問と同じく観察には理論的な先入見が含まれている、と考 える傾向が強い。・・・」(ただし山崎氏は、以上の考え方を認めつつも、他の見方も 同時に考える必要があると論じています。)

(3)NHK人間大学「新しい科学史の見方」、1997年、村上陽一郎 「・・今では、科学も時代と社会に縛られた知識の総体のなかに組み込まれた思想の一 部と見なされるようになり・・」(もちろん村上氏は当事者ですが、NHK人間大学で このようなテーマが取り上げられたという事実に関心をもちました。)

(4)私と同じキャンパスにいる、ある国際政治学者が私にした発言 「パラダイム・シフト論により、自然科学も社会科学と同様に確固とした基盤に立って いるものではないという考え方が広まり、社会科学者のコンプレックスの解消に役立っ た。」(私がパラダイム・シフト論に反対するからといって、社会科学はレベルが低い などと主張しているわけではありませんから、念のため。)

とりあえず、思いついたのはこのようなものです。河本さんの言われる科学哲学の多数 派は、以上のような傾向をどう思われるのでしょうか。私には、これにどの程度の政治 的社会的含意があるかはわかりません。

 ただし、最近の教育現場で、「生徒に実験をやらせ自由に議論をさせるが、その学問 的な解釈について先生が積極的に指導をしない」という授業が行なわれているという話 を聞き、それがどの程度に一般的なものかわからないながらも、「ウィッグ史観の排除 」あるいは「社会構成主義」と関係があるのかと気にはなっています。(すでにこの掲 示板ではかなり議論されたことかもしれませんが。)


Id: #a19990713075312  (reply, thread)
Date: Tue Jul 13 07:53:12 1999
In-Reply-To: a0045.html#a19990713045453
Name: くろき げん
Subject: Re: 最近のPhilosophy of Science Associationの会合のプログラム

伊勢田さんのすすめにしたがって、ここを覗いてみました。そこを見ると、多くのプログラムがしっかり自然科学の側を向いたものになっているように見えます。自然科学者の反応はどういう感じなのでしょうか? e-Print Archive (のたしか gr-qc, quant-ph あたり) で科学哲学者の論文を見付けることもできますよね。

日本の現状はどういう感じなのでしょうかね?


Id: #a19990713064713  (reply, thread)
Date: Tue Jul 13 06:47:13 1999
In-Reply-To: a0045.html#a19990713045453
Name: 河本孝之
Subject: なるほど。

>伊勢田さんへ。
 ありがとうございます。Suppe さんの著書に関しては私の認識不足でした。浜田さんにもお詫びします。あの著書全体の捉え方としては確かにそうなりますね。
 ところで、はまださんのご質問(特に(1))についてはどのようにお考えなのか、できればお聞かせ下さい。「ありうべき科学」を科学哲学者が現実の科学理論として提出する、という意味でないことは明らかだと思えるのですが、いかがでしょうか?
 
Id: #a19990713045453  (reply, thread)
Date: Tue Jul 13 04:54:53 1999
In-Reply-To: a0044.html#a19990709070523
Name: 伊勢田哲治
Subject: Suppeの本とか

御記憶の方もいらっしゃると思いますが、科学哲学屋のメリーランドの伊勢田です(京都滞在中)。 ずいぶんひさしぶりに見に来たので、ちょっと古い掲示への返事になりますが失礼。

浜田さん曰く:

Suppe(編)の本は20世紀の科学哲学で扱われた主要なテーマについての一流の概説(今でも)との 評判を耳にするけれども(良く売れ たのはKuhnのSecond Thouhgts on Paradigmsが入ってたからだと想像する)、 せいぜい1970年代初頭までという制約がついている し、たまたま序文を書いただけでSuppeが賢いわけではないし。 どうせなら、現在の英米の科学哲学でのコンセンサスの例として、もっ と最近のものを挙げてもらいたい。
ええっと、これは自分の先生のよいしょになるのでその辺ちょっとくらいさっぴいて 聞いていただいてもいいんですが、 The Structure of Scientific Theoriesが科学哲学者 によって定番の概説として言及される場合、たいていはあのintroductionについての 言及です。ク−ンの見解に興味の在る向きはEssential Tensionとか別の本を買うでしょう。ただし、河本さんの推測もちょっとずれていて、この本の科学哲学上の意義は、 「received viewの最終的な破たんを共通認識とした」という点にあるとされている とおもいます。つまり、論理経験主義の最後の生き残りヘンぺルが大っぴらに 自分達のプログラムがうまく行かなかったことを認めたのが一つのイベントだった わけで、そこにいたるまでの議論をきれいにまとめたのがSuppe先生の功績に なってるわけです。ク−ン的な大掛かりな問題設定(SuppeがWeltanschauung viewと よぶもの)が失速したのは70年代末から80年代初頭のころで、この本の初版(74年)のころはまだ大分活発な議論がなされていたと思います。

では今ク−ンの評価はどうなっているかという浜田さんのもう一つの御質問 なんですが。これは、ク−ンと問題設定を共有する科学哲学者が今ではほとんど いないために、それについての合意の形成の必然性すら認められていないという のが現状ではないでしょうか。今英米の科学哲学がだいたいどんな感じになっている か、を知るには、たとえば 最近のPhilosophy of Science Associationの会合のプログラム なんかをみていただくと少しは感じがつかめるかと思います。今回はたまたまク−ンに 関するセッションが一つありましたが、全然ないこともけっこうあると思います。

では。


Id: #a19990712193044  (reply, thread)
Date: Mon Jul 12 19:30:44 1999
In-Reply-To: a0045.html#a19990712160132
Name: やまの
Subject: 補足説明
>田崎さん
>やまのさんの岩波の辞典からの引用は意図が見えないとぼくも感じたのは事実ですが

田崎さん、以前は、僕の投稿にご返事いただき有り難うございました。
「微分の言い抜け」については、ぼくよりずっと詳しく田崎さんがレスして
おられたことを知りました。

さて、岩波の辞典を引用した僕の意図について、補足説明します。

これは、和田先生が、「ク-ンの通約不可能性等のテーゼについて、科学哲学の
専門家は、どのように教えているのか」という質問されたので、哲学思想辞典
の最新版で、専門家が述べている記事が参考になるのではないかと思って、
投稿しました。
 最初に投稿しようとしたときは、引用部分は表組みレイアウトにして、
僕の意見とは区別したのですが、投稿直前になって、表タグはエラーになるという
メッセージが出たので、急遽、タグをはずしました。それで、引用の部分と
僕の個人的見解が区別しにくくなっているので、不正確な引用という印象を与えた
かもしれません。もういちど内容を確認します。

=======================引用文==================================
「クーンはさらに、1990年の講演で、「構造以来の道」で、「通約不可能性こ
そが科学的知識に関するいかなる歴史的、発展的、進化的観点にとっても本質的構
成要素であると感じだしている」と告白している。「通約不可能性という概念は、
しばしば誤解されているように、決して理論間の全体的な比較不可能性を主張して
いるのではない。ある種の比較可能性を前提した上で、単純な基準での比較不可能
性を主張しているということは留意されるべき点である。
======================================================================

 以上が、佐々木さんの文章で、僕はこれを読んで、はじめて「通約不可能性」 とい
う概念を、なぜク-ンが重要視するのか、納得しました。
つまり、ク-ンは、科学の「歴史的、発展的、進化的発展」というものを前提した
上でパラダイムの変革とか通約不可能性を持ち出しているのです。
ところが、クーン以後の人が「通約不可能性」を言うときには、そういう前提が抜け
落ちて、「ニュートン物理学と相対性理論」はまったく比較できない異なる理論だ、
というかたちで短絡的に理解されたのではないでしょうか。

和田先生は、ニュートン→アインシュタインを「通約不可能」 なパラダイムシフト
と捕らえるのはスキャンダルだと仰ったのですが、

##同一のパラダイムの内部での「累積的進歩」のほかに
##「パラダイムシフトを伴う科学的知識の発展進化がある」と云うこと--
##(これはやまのの見解です)

を認める議論として、クーンのいっていることを受けとめれば、
「相対論とニュートン物理学の間に通約不可能性がある」と主張することはことは
決してナンセンスではないと思います。

たとえば、和田先生は f=ma 両者で が共通だと仰るのですが、
加速器で連続的に荷電粒子を加速しても、原理的に光速を超えることができない
というような了解が、ニュートンの力学のパラダイムにあったでしょうか。
固有質量と固有時間を、ニュートン物理学の基本方程式にでてくる質量と時間に
それぞれ代入すれば、相対性理論とニュートン物理の「連続面」がハッキリする、
だからどちらも古典物理なのだ、という和田先生の議論は、よくわかりましたが、
それでも「固有時間」と「基準系の時間」、「固有質量」と「相対論的質量」を
区別するという考え方自体が、ニュートン物理学にはなかったと思います。

私が云いたいのは、そういう、物理学の基本概念に関する、了解の相違
を踏まえた上で、なおかつ物理学は「進化発展する」というのが、本来
ク-ンの言いたかったことではないか、ということです。

Id: #a19990712191640  (reply, thread)
Date: Mon Jul 12 19:16:40 1999
Name: はまだとらひこ
Subject: Berkeley???

私の野次馬的興味は、山野さんがどこでどう調べたのか知りたいです。とくに、村上本人の著作なのかどうか
確かに無限小とか無限可分性を否定したBerkeleyの言いそうな事ですが、
The Analyst: a Discourse addressed to an Infidel Mathematicianのどこに書いてるんでしょうか?


Id: #a19990712160132  (reply, thread)
Date: Mon Jul 12 16:01:32 1999
In-Reply-To: a0045.html#a19990712144307
Name: 田崎
Subject: 一般読者の理解を助けるためには有効だけど、数学史としては粗雑すぎる

のは全くしょうがないでしょう。 別に数学史を真面目に議論しようという話じゃないし。 ぼくの書くものなんて全部そのレベルだし、それでいいと思っていた。

やまのさんの岩波の辞典からの引用は意図が見えないとぼくも感じたのは事実ですが。


Id: #a19990712151243  (reply, thread)
Date: Mon Jul 12 15:12:43 1999
In-Reply-To: a0045.html#a19990712144307
Name: こなみ
Subject: まあまあ

 山野さんの書いたものが村上氏の弁護にぜんぜんなっていないのは確かだけど、 「微分の言いぬけ」という荒唐無稽なシロモノが実はバークリー僧正 のオリジナルであったという話しには、 なかなか感心させられるものがありました。村上陽一郎氏はそいつを受け売りなさって いたということになりますから。山野さんが少々知ったかぶりであっても、人の知らない 知識をもたらして下さったことは有意義ではないかと。(「言いぬけ」は英語で 何だったんでしょうねえ)

 しかしそれより私としては、山野さんが村上先生のどんなところに魅力を感じているかを知りたかった のですが、それはもはやお答えいただけないかな? 


Id: #a19990712144307  (reply, thread)
Date: Mon Jul 12 14:43:07 1999
In-Reply-To: a0044.html#a19990710205039
Name: 鴨 浩靖
Subject: Re: 微分の言い抜け

やまのさんに村上陽一郎の擁護のつもりがないのは、見て明らかです。半可通が何かを読んでの受売りの典型でしかありません。「聞いて、聞いて、僕はこんなことを知ってるんだよ。偉いでしょう」であって、議論に参加しようとしているのではないのですから、まじめに相手をしてはいけません。 どこをとっても、馬鹿の一つ覚えの兆候ばかりではないですか。

だいたい、「ニュートンやライプニッツの時代の解析学は怪しげなものだったが、ε‐δ論法によって論理的に明確になった」なんていう通俗解説書にいかにもありそうな単純化をそのまま引き写してくるところが、議論に参加したいのではなく、自分の知識をひけらかしたいだけなのが、見え見えでしょう。そういう単純化は、一般読者の理解を助けるためには有効だけど、数学史としては粗雑すぎます。


Id: #a19990712133703  (reply, thread)
Date: Mon Jul 12 13:37:03 1999
URL: watanabe@tohoku.ac.jp
Name: わたなべ
Subject: F=ma
遅ればせながら和田先生の F=ma と F'=m'a に関係した話題です。

世間で「質量」と言った場合、いわゆる「相対論的質量」を指す場合と「不変
質量」を指す場合があるかと思います。

  相対論的質量
   ・「物体の速度が光速度に近づくと質量が大きくなる」といった文脈での質量。
   ・物質の全エネルギーに対応。
   ・ローレンツ変換によって値が変化する。
   ・和田先生の文章における m'

  不変質量
   ・静止質量と同じ。
   ・物質の全エネルギーから運動エネルギーを引いたものに対応。
   ・ローレンツ変換に対して不変。
   ・和田先生の文章における m

また、私は物理屋ではないのでよくわかりませんが、物理屋の世界では単に
「質量」と言った場合は後者の事を指す場合が多いようです。

非専門家の間での、あるいは非専門家と専門家の間での相対性理論に関する議
論が、「質量」という言葉をどちらの意味で使っているかが明確でないために
混乱する事が多々あるように感じています。

Id: #a19990712010751  (reply, thread)
Date: Mon Jul 12 01:07:51 1999
In-Reply-To: a0045.html#a19990711060145
Name: 河本孝之
Subject: ・・・(Xの記事を見た後なので、目がちょっと)

浜田さんのご質問(1)について。
 この場合、科学哲学は「科学」と呼ばれる学術活動およびその成果を、哲学者が関心をもっている幾つかの理想的な知識の条件(整合性とか包括性など)およびそうした知識を獲得するための条件(合理性とか実証性など)等々と比べていると思います。しかし残念なことに、現代の哲学者は昔の哲学者(デカルトやライプニッツ)と比べて哲学内部の自足的というか自己増殖的な研究課題に安住していても「食っていける」ので、ここで議論されているように実際の科学を正確に知らなくとも、自分たちのいわば勝手にこしらえた観点や課題に沿って科学を論じていればそれなりに学説を立てられる、という(私が見ても)お気楽な状況が生まれてしまいました。私は、(理想的な)科学哲学者であればこのような現状を「学問分野の細分化」という言い方で許容すべきではない、と考えています。
 「科学哲学は科学批判を任務とする」という表現が許されるとすれば、その表現の「批判」は、「哲学者が勝手にこしらえた基準で論難する」ということを意味してはいないはずです。こう考えると、「科学を相対主義的もしくは多元主義的な解釈で捉える」という結論ありきの議論を展開するために科学哲学へ言及する「科学哲学ユーザー」は、自然科学どころか科学哲学すらをもまじめに理解しようとしてはいない、と言わざるを得ません。私は、上の表現にある「批判」は、科学に対する一定の(可能な限り正確な)理解と、哲学で議論される先に述べたような諸条件とをつきあわせて、哲学者が自分たちの考える諸条件によって理想化した科学(理想的な知識の条件を満たす体系)を吟味する、ということを意味すると思います。ただ、それゆえに哲学者たちが自分たちの考える諸条件だけを自己増殖的な話題として扱いがちであることは否めません。

 
Id: #a19990711161101  (reply, thread)
Date: Sun Jul 11 16:11:01 1999
In-Reply-To: a0044.html#a19990705141717
Name: 中島 啓
Subject: Re: 中島さん
遅くなってすいません. 日本にいなかったので, 日本語の入力ができなかった
もので.

おっしゃるとおり, 私の本はKaehler-Einstein計量の存在定理のみを取り扱っ
ています. なぜ存在定理が面白いのかを伝えたい, と思って書きました.

全ての方が興味を持つと考えるのは虫がよすぎるかもしれませんが, できれば
本文の方も目を通されることを期待いたします.

Id: #a19990711153442  (reply, thread)
Date: Sun Jul 11 15:34:42 1999
Name: はまだとらひこ
Subject: Kuhnの著作を読まずに知ったかぶりになる方法
伊藤邦武「パラダイム論の展開」、内井惣七・小林道夫(編)『科学と哲学』1988昭和堂

もちろん、読んだ後にも参考になります。
(この本の他の章も面白いです。)

Id: #a19990711143059  (reply, thread)
Date: Sun Jul 11 14:30:59 1999
Name: やまの@クーンの愛読者
Subject: 通約不可能性の正しい理解へ

佐々木力さんが、「通約不可能性(incommensurability)」を説明している文章を見つけました
ので紹介しましょう。出典は、岩波哲学思想辞典(1998)。全部は長いので、サワリだけ紹介

クーンは、『科学革命の構造』の観点を、『本質的緊張』に収められた論文 「客観性、価値判断、
理論選択」ででさらに彫琢し、いかなる要因が新理論を選択させるかの基準を 打ち出している。
それらは五つに纏められる。
1.理論の精確さ 2.理論の整合性  3.広い応用可能性 4. 理論の単純性
5. 理論が将来に展望を示しうること、多産性

クーンはさらに、1990年の講演で、「構造以来の道」で、「通約不可能性こそが科学的知識に
関するいかなる
歴史的、発展的、進化的観点にとっても本質的構成要素であると感じだしている」
と告白している。

通約不可能性という概念は、しばしば誤解されているように、決して理論間の全体的な比較不可能性を
主張しているのではない。ある種の比較可能性を前提した上で、単純な基準での比較不可能性を主張
している
ということは留意されるべき点である。

ここで大切なのは、同一のパラダイムの内部での「累積的進歩」のほかに
パラダイムシフトを伴う科学的知識の発展進化がある」と云うこと。

これを応用すれば、ニュートン物理学と相対性理論への進化発展、
古典物理学から量子論への進化発展は、クーンの上記の立場からすれば、
通約不可能な二つの理論」の間に起きた進化発展であるということになりますね。


Id: #a19990711131236  (reply, thread)
Date: Sun Jul 11 13:12:36 1999
In-Reply-To: a0044.html#a19990705091219
Name: まきの
Subject: ファイヤーアーベント、共約不可能性

過ぎ去った昔の説をいまさら掘り起こしてもしょうがないかもしれませんが、、、

ファイヤーアーベントが共約不可能性についてわりと普通に説明しているのは「方法への挑戦」17章後半です。そこではまあおおむね和田先生がされているような議論を持ってきて、それに対して反論するという形で議論が展開されています。

うーん、というか、そういうことをしているようなんですが、少なくとも翻訳を読む限りではなにが書いてあるかよくわからないんですね、これが。もちろん私の理解力とか知識の問題かもしれないのですが、もうちょっと荒い議論が Philosophical Papers, Volume 1, Chapter 4 でなされていて(これは翻訳はないです)、これはそんなにわかりにくくないので、、、

ついでにいうと、ファイヤーアーベントが共約不可能性とかそういうややこし い概念を持ち出していっていることは、まさにはまださんが書いてらした

(1)「科学批判」のために科学哲学をするとか、「ありうべき科学」を模索する規範を示す任を科学哲学が負うとかいう話。
はおかしいというか無理であるということでもあるわけです。
Id: #a19990711115832  (reply, thread)
Date: Sun Jul 11 11:58:32 1999
Name: 田崎晴明
Subject: ソーシャル・テクスト事件からわかること、わからないこと

なんでも2でこっそり書きましたが、Alan Sokal が書いた What the Social Text Affair Does and Does Not Prove を日本語に直しました。 Subject からリンクしました。

例の Soacial Text との騒動のほぼ一年後くらいに書いたもので、彼の意図、騒動のもつ意味、そして特に、哲学的な問題と現実的な問題を混同してしまうことの危険さなどについて、彼の考えをはっきりと書いています。 黒木さんも時々参考に挙げられているエッセイで、最近続いている議論とも関連するはずです。 去年の現代思想に翻訳が載っていましたが、買い損なった人、買わなかった人は(そして買った人も)ご興味があればご覧下さい。

この翻訳は、山形浩生さんプロジェクト杉田玄白への参加作品(なんか変な言葉だなあ)です。 無料で web 上で公開するからといって、質が低くてもいいなどとは思いたくありません。 誤りのご指摘や、改良のご提案などをお待ちしています。


Id: #a19990711112402  (reply, thread)
Date: Sun Jul 11 11:24:02 1999
In-Reply-To: a0045.html#a19990711111851
Name: くろき げん
Subject: 会社員さん、すみませんが引っ越しお願い致します

会社員さん、すみませんが、その話題はに引っ越して下さい。回答する方もそちらに移って下さい。


Id: #a19990711111851  (reply, thread)
Date: Sun Jul 11 11:18:51 1999
Name: 会社員
Subject: 熱力学の質問なんですが・・・(^^;;

しばらく振りで、失礼いたします。
以前、田崎先生が、熱力学のすてきな教科書を書かれたことが
話題になった事がありましたが、田崎先生とまでは、いかなくても
私の抱えてる疑問に一石を投じて頂ければと思いまして、
投稿する事にしました。
いま、ボイラーなどの燃焼ガス中の水分量を計算する問題で、
熱力学の基本問題を考えなくてはならなくなりました。
問題のあらすじを説明させて頂きます。

ボイラーの出口に取り付けられた煙突の壁面には、資料採集用の横穴があって、
そこに、吸引ノズルをセットして、排ガスを取り出します。
この時、ゴミが入らない様に、先端部分には、ガラス繊維などでトラップします
排ガス中には、燃料中の水素や炭化水素から発生した水滴が含まれています。
それを次の所で、無水塩化カルシウムなどの吸湿剤を詰めた吸湿管で除き、
吸湿剤には、COを吸収してしまうシリカゲルなどは使えません
その出口に、吸引用の真空ポンプをセットし、最後に、真空ポンプの排出するガスを
流量計に接続します。
その流量計は、湿式ガスメータと呼ばれるもので、
円筒形の容器の中心に自由に回転できる軸があって、その周囲に半分開いた形の
部屋が4ヶ取り付けてあり、外筒には水が半分だけ入っています。
外筒の水の無い部分には、穴が開いていて、そこで外気へ開放されています。
排ガスは、中心の所から周囲の部屋の1つに入る様になっていて、
入ってきた排ガスによって回転を始め、外筒の上半分に来ると、大気中へ排ガスを
放出する事を繰り返す事で、外筒1回転で、4部屋の量の排ガスを吸引した計算に
なる仕組みです。

問題は、その流量計の仕組から計算される排ガスの水分率を導く事なんです。
流量計に入ってきた排ガスは、飽和水蒸気圧の水蒸気を含んでいて、
吸湿管で除去した水分量をmグラム
ガスメータで計量した排ガス量をVリットル
ガスメータ中の排ガスの温度をT℃
ガスメータに入って来る排ガスの圧力をPキロパスカル
T℃の飽和水蒸気圧をPキロパスカル
大気圧をP大気キロパスカルとすると、排ガスの水分含有率が

                   22.4
                  ------ m
                    18
 -------------------------------------------- X 100
     273     P + P大気 - P         22.4 
 V --------- -------------------- + ------ m
   273 + T          101.3             18

と求められるという事なのです。
問題は、湿式ガスメータの構造から決まる 
P + P大気 - P の部分なのですが、
私には、P + P - P大気 に思えるのです。

また、この問題から派生して、熱力学の思考実験でよく使われる
摩擦や慣性抵抗ゼロのシリンダー内部に圧力Pの気体がある場合、
外気圧もPに等しくないと、V→∞になってしまうように思えて来ました。
気体の状態方程式も、考えてる系の周囲の環境条件(P,T)で平衡条件が
決まる様に思えてきました。
どうか、よろしくお願いします。


Id: #a19990711093922  (reply, thread)
Date: Sun Jul 11 09:39:22 1999
In-Reply-To: a0044.html#a19990710170203
Name: くろき げん
Subject: Re: 一つの「問題提起」であるという答えでした

和田さんによると、東大駒場で次のようなやりとりがあったそうです:

ある人は、私が先週批判した「ニュートン力学と相対論的力学間の通約不可能性」をそのまま信用していたようでした。また教養科目としての「科学哲学」では村上氏の「新しい科学論」(ブルーバックス)がテキストで使われているというので、偏っているのではないかと批判したら、一つの「問題提起」であるという答えでした。

この「問題提起」という言い訳は極めて典型的だと思います。「問題提起」をすることは大事なことだと思います。しかし、「正しいと信じた上で説明していること」と「疑わしいがあえて説明していること」の間の区別を曖昧にするために、「問題提起」という言い訳をするのは不誠実です。果たして、どちらなのかよく観察してみることが必要だと思います。何をどう問題提起しているかを本当に明らかにしているか? また、本人が不誠実な態度を取っているつもりがなくても、現実にそういう効果を持ってしまっているとしたら、当然批判されるべきだし、学者としてその責任も問われると思います。

ちなみに、ソーカル事件以後の論争の最重要のキーワードの一つに、「方法論的相対主義」 (methodological relativism) があります。「方法論的相対主義」とは「自分自身 (もしくは自分達の文化、社会、などなど) の常識や偏見を疑うために、あえて様々な考え方を平等に扱ってみること」です。上の話と繋げれば、「問題提起」として「方法論的」に確信犯で「相対主義」的なことを述べてみるというのが、「方法論的相対主義」なのです。これ自体に問題があるわけではありません。 (「方法論的相対主義」の説明はここで読めます。余談: Sci-Tech-Studies ML は科学論関係の情報を得るために大変便利な ML です。 Alan Sokal and Social Text Affair が起こった1996年の記録はここにあります:第一報)

しかし、そういうやり方は、ダブル・スタンダードに陥り易いんですよね。それはどういうことかというと、出版物にはものすごく過激で間違っているように見えること (場合によっては他人を怒らせるようなこと) を書いておいて、「それは馬鹿げているのではないか」と非難されると、「いやいや、それは問題提起であって、方法論的にそういう過激な言い方をしているだけで、本当に言いたいのはホゲホゲホゲなんですよ」 (「ホゲホゲホゲ」は誰でも納得する自明で穏健な意見) と言い訳できるからです。そして、別の一方では、過激で刺激的な解釈の方に影響されてしまった“好意的な読者”をそのまま放置したままにしておく。 (cf. "... but what I really meant was blah blah blah,' where blah blah blah is something that's not only not radical at all, it's true and trivial.")

過激に聞こえる曖昧な表現の多用はトーマス・クーンの『科学革命の構造』においてすでにかなり顕著ですよね。『科学革命の構造』が成功した理由のいくばくかはその特徴にあると思います。そして、面白いことに、クーンに影響を受けたということになっている科学社会学の書物の多くに同様の特徴が見てとれるのです。例えば、 Bruno Latour の Science in Action (邦訳あり) は典型的ですよね。あと「「それでもシアンがあったかなかったかが問題だ」と言う人には「デカルト的不安症候群」との診断を下さざるを得ない」もそうだと思います。それらを読むときは、読者はくだらんレトリックに誤魔化されないように注意すべきだと思います。上で述べた意味の“好意的な読者”にならずに、きっちり批判的に読まないと駄目だよね。


Id: #a19990711060145  (reply, thread)
Date: Sun Jul 11 06:01:45 1999
Name: 浜田寅彦
Subject: Re:コンセンサス
まず最初に、私は河本さんの最初の2つ3つの書き込みを高く評価しています。
多少とも科学哲学を齧ってみようとした人ならば、あの短い書き込みだけでも、
主流の科学哲学の状況をある程度十分に伝えてるのがわかります。
ということで、「新科学哲学はどこ行った?」とか、Kuhnやパラダイムにまつわる
論文を普段目にしないというのは、隣の研究室でやってることが分からないという
どこの分野でもある状況を差し引いても、不思議でもなんでもないと思います。

コンセンサスと言ったのは、何か結論があるというのではなくて、
どんな分野でも、どんな問題をどのように取り上げるか(あるいは扱わないか)
について、おおまかな了解があるだろう(良い悪いは別にして)という意味です。
教えていただくのは、やっかいなKuhnについての評価ではなく、
何かのanthologyや雑誌の特集でかまいません。

ついでに、私が日頃おかしいと思ってるのは、次の2点です。
特に(2)について知りたいと思っています。
(1)「科学批判」のために科学哲学をするとか、「ありうべき科学」を模索する
    規範を示す任を科学哲学が負うとかいう話。
(もちろん、科学哲学から科学論を切り離してニュートラルになるわけにはいかないけども)
(2)社会学(科学社会学)での Social Constructivismの適用
   constructivisimのスローガンは社会学でよく目にしますが、その方法論を
   検討したものや、具体的な適用方法の仕様を書いたものは、見当たりません。
   不思議な事に社会学内部での方法論争は行われないみたいです。
   ontological gerrymanderingを巡って論争があったみたいだけど下火らしい。
   (中身よりクレイム申し立てのほうが大事らしい(笑))

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管理者: 黒木 玄  <kuroki@math.tohoku.ac.jp>  (Web Site)
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