黒木 玄 (東北大学大学院理学研究科数学専攻)
まず, これは何度も強調していることだが, 正攻法は, 数学の良い本を一冊選 び, それを熟読することある. そのために適した本は, 論理的な説明が詳しく 書いてあって, しかも重要な例に関する説明がしっかり書いてあるものである. 一つ以上の分野を完全に修得するためには, このような勉強の仕方が不可欠で ある. 講義や演習の単位を取るためだけに, あまり面白くもない純粋に教科書 的な本の一部をつまみぐいするという類の勉強の仕方も, ときには必要ではあ るが, そのような勉強の仕方のみでは決して深い理解を得ることはできない. 最近, そのような勉強の仕方をしている学生が大勢になっているように感じら れるので, 数学を楽しんでいる私は大変残念に思っている.
1日に数学の本を1ページづつ読んで行けば, たまに休んだとしても1年で300ペー ジの本を1冊読むことができる. 1日に1ページとは何と遅い読み方だと思われ る人がいるかもしれないが, それなら実際にそれができるかどうか実践してみ て欲しい. どんなに速く読んだとしても, 論理的かつ直観的な理解が伴わない のでは, 数学の勉強の仕方として無意味である. 厳密に論理をフォローするだ けでも大変なのに, さらに直観的な理解をも身に付けようとすれば, 膨大な時 間が取られるのが普通である.
数学の本の読み方であるが, 初心者は以下のような点に順次注意を払うのが良 い:
今読んでいる本の内容のみで理解が困難な場合は, 他の文献を調べてみなけれ ばいけない. 教科書には理解を助けるための演習問題の類が載っていることが 多いが, 必要に応じて演習問題を解答を自分で考えてみることも重要である. しかし, この命題の証明は演習問題であると陽に書いてなくても, 数学書を読 む作業はその本の内容の行間を埋めるために演習問題を解くことの連続になる ので, 実質的にたくさんの演習問題を解くことになる. よって, 必ずしも演習 問題を解くことにこだわる必要はない. このような考え方は他のあらゆること に当てはまる. どんなことをするにも, 教条主義に堕ち入ることはよろしくな いのである.
数学書を読んでいてわからなくなった場合は, 先に進むことと後に戻ることの 両方を考えなければいけない. 数学書の多くは定義・例・定理・証明・系(ま たは例)のような順番に書かれていることが多い. 定義や定理の内容を理解せ ずに先に読み進むことは, 必ずしも不真面目な態度ではない. 理解してない部 分を明僚に認識し, 理解してないことを忘れなければ良いのである. 例えば, 抽象的な定義を直観無しでは記憶に止めることさえ困難な場合がある. そのよ うな場合は定義の文章を何度も読むだけではなく, 先に進んでどのような例が その定義に適合するのか調べてみた方が良い. また,定理の文章を読んでも, 一体何を述べているか分からない場合も多い. そのような場合は証明の文章を ざっと眺めてみたり, 定理の応用例として系もしくは例などが書いてないか調 べ, 定理を理解するためにまずそちらの応用例にあたってみるのである.
わからなくなった場合の対処の仕方は他にも色々ある. 例えば, 本に書いてあ る内容があまりにも抽象的もしくは一般的な場合は, 自分にとって親しみ易い 特殊な場合に限ってそれが成立しているかを確かめてみるという方法がある. 例えば, n 次元コンパクト多様体と書いてあったら, まず S^1 (円周)の場合 に内容をチェックし, 次に S^2 (2次元球面)や2次元トーラスなどの簡単な場 合を調べてみるのである. 逆に, 特殊過ぎて理解不能な場合は, どのように一 般化されるか考えてみるのが良い. 本に書いてある方向と少し逆の方向に行っ てみることによって, 理解が深まることは多いのである.
最後に強調しておきたいことは, 数学の研究も自然科学と同様に帰納の学問で あり, 演繹の学問ではないということである. この点は多くの人が誤解してい る点である. 数学科の卒業生でも誤解しているかもしれない. (この点におい て, 数学科の教官は大いに反省する必要があると思われる!) 実際の数学の研 究の場では, 特殊な多くの例の集積から, その様子がかなり明らかになったと ころで, 多くの予想が立てられるのである. 予想を立てるという作業は演繹的 ではなく帰納的な作業である. 予想の多くはすぐに証明もしくは反証されるが, 予想の幾つかは証明も反証もされないまま, その特別な場合に関する結果のみ がさらに集積して行くのである. その特別な結果の集積は自然科学における実 験・観察の部分に相当している. つまり, 論理的(演繹的)に証明された結果や 特殊な場合における計算結果は, 理論建設という帰納的な試みの材料とされる のである. このようなことは, 数学を真面目に勉強していれば自然に気が付く ことである.