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広田照幸による最近の教育論に対する批判


時間がなくて詳しく紹介する暇がないのですが」と書きましたが、『アソシエ』 2002, No.7 に掲載されている広田照幸と黒沢惟昭の巻頭対談 (2001年12月21日、アソシエ21ホールにて) から広田の発言を引用しておきます。広田の論点は、各論では必ずしも意見が一致しているとは限らないが、方向性において新美一正の論点と共通するところが多い。


広田◎ かつての地域の共同体に代わるものとして、学校を介した新しい地域のネットワークを構想するような議論は、いろんな方が最近盛んに言ってますね。ただ、私はそれについても疑念を持っています。
 つまり、ボランタリーなネットワークを作れるのは、知識や時間のような資源を持っている人たちで、本当に社会的な弱者、弱いところにいる人は十分コミットするだけの時間的余裕も精神的余裕もないし、参加しても対等な議論をやっていけるような文化的な資源もない。そういう中で、社会的弱者ほどネットワークの網の目からこぼれ落ちてしまうと思うんですよ。学校を介したネットワークを賞揚する、この種の議論は、ネットワークを張れる余裕のある人たちが展開してる議論だと思います。

黒沢◎ その問題はあります。でも市場に任せると、もっとドラスティックになると思います。

広田◎ 強い家族であったり、強い個人であったりね。かといって、対案もなかなかないんですけどね。必ずしもそういう形でやっていけばよいとは考えていません。

(以上『アソシエ』 2002, No.7 の24頁より)

広田◎ 経済との関係についてもご意見をうかがいたいと思います。参加によって作る学校というのは、ある意味で政治的な視点からみた学校観だと思うんですけど、経済との関係を考えたときに、どういう結果が生じるかが、気になるんですよ。つまり労働市場との整合性とか、あるいは将来の技術革新なんかに対応した再社会化の必要性とかをどう考えるかといった点です。
 学校で何をどう教えるべきかという話を、政治的な民主主義の実現という側面でのみ考えるんじゃなくて、経済との整合・不整合というレベルの問題としても、考えておく必要があると思うんですけれども。

黒沢◎ 労働市場というのは、人材養成のことですか。

広田◎ 国策としての人材養成というよりも、個人の福利のレベルでのことを想定しています。要するに、学んだものが近い将来や遠い将来に役に立つということを考えておかないといけなくて、それが参加・分権化の学校作りの中で、すべての子どもに十分その点が顧慮されたものになるかという、そこが気になる。
 非常にユニークな実践をやってる学校とか、いろいろ新しい試みをやる学校とか出てきたときに、充実感や活気を生んだとしても、果たしてそれが子どもの将来にとって役立つものになっていくのかどうか……。

……

広田◎ 言いたかったのは、地域を足場にユニークな学校を作ろうという議論が抱える困難です。
 現実に進んでいる改革を考えると、一方では、地域内に多様なニーズがあったときには、学校をどっちへ進めるかという意思決定過程で非常に揉める可能性がある。他方、たとえば学力をつけさせようとか、あるいは「生きる力」をつけさせようというふうに、地域ごとに一枚岩になってやっていったら、それはそれでまた地域格差の問題なり、将来の労働市場とのミスマッチなり、そういうことが起きる。

(以上『アソシエ』 2002, No.7 の25-26頁より)

広田◎ 私は、知識重視の学校を否定せずに、もう少しその可能性をさぐっていくべきだと、最近は考えています。受験戦争が劇化した一九六〇年代ぐらいから、教育学者は、知識の詰め込み教育はいかんと言い続けてきました。受験のための学力は本当の学力じゃない、と。七〇年代以降の教育社会学者は、社会に通用してるのは学力じゃなくて学歴なんだ、という話を展開して、これも学校で学ぶ知識については不信の眼差しを注いできた。だから教育学者たちはまるごと、知識の教え込みに関して批判的か、あるいは無関心でした。
 ある種、それの反動が「生きる力」なんじゃないかと思います。教育学者が「学校で教わる知識は役に立たない」と言いつづけてきた結果、従来の学力に対する不信感が社会全体に醸成されちゃって、「生きる力」という曖昧模糊とした概念を生み出しちゃった。
 だけども、諸外国なんかだと、基礎学力を重視しようという方向へ動いてますよね。開発途上国でも、知識の習得が教育の主眼でありつづけている。同じように、「学力は役に立つんだ」ということをきちんと自覚しなおす必要があるんじゃないかと思います。
 東工大の矢野眞和さんなんかも、高校までの教育内容は実社会でとても役立つんだということを強調されています。現在は、いわば、「詰め込み教育批判」というお灸が、効きすぎちゃったような状態ですから(笑)、知識の有用性をきちんと評価し直して、何が学ばれるべきかという議論の中へ組み込んでいく必要があるだろうと、私は考えています。

……

広田◎ そこは見方が全然違いますね。一つは、苅谷さんとか藤田さんが言うように、格差が拡大する側面が非常に重要な問題です。

(以上『アソシエ』 2002, No.7 の26-28頁より)

広田◎ うーん、地域の多様な人の多様な思惑をそのまま学校にもちこんじゃうとしたら、教師も親も子どもも、決してハッピーにはならないでしょう。
 とても現実に密着した、しかし、実際にはなかなか困難な話をします(笑)。先ほどゆとりの教育の話が出ましたけども、いま本当に必要なのは、教える側にゆとりを作ることだと思うんです。
 つまり先ほど出たように、全国にわりあいよく似たタイプの学校があって、だけども個別には多様な生徒に合わせて教師が対応していけるためには、今までのように多忙化の中でキリキリとやっていかないといけないというようでは駄目ですね。教員に十分な時間のゆとりがあって、教材の研究もできて、個別の生徒の悩みにも対応できてというゆとりを、教える側に作ることが必要なんじゃないかと思います。
 もちろん、すべての教師が全部の方面を十二分にこなせといえば、これは多忙化を避けられません。むしろ、教材の研究に打ち込むか、生徒とのふれあいに時間を割くかなどといった選択は、個々の教員の自由に任せ、定員を増やして、たっぷりと時間を与えることです。外からいろんな人が細かいチェックをかければ学校はよくなるんじゃないくて、中でいろんな試みができるだけの余裕を持たせることが必要なんじゃないかと思います。

……

広田◎ いや、でも、リカレントで研修をやると、またぞろ教師は忙しくなりますよ。

……

広田◎ 私は個々の教員のスキルを高めろといっているわけではなくて、たとえば級友をいじめている子どもと向かい合う時間をたっぷり取れるとか、あるいは日系ブラジル人の子どもの不適応問題に個別に対応できるだけの時間がとれるとか、要するにマイノリティの問題とか弱者の問題をどうするかと言ったら、教員がそれだけ手厚くやれるような時間的余裕を作ればよい。
 「創造性を伸ばす教育」が本当に大事だというならば、教員自身が創造的な営みで喜びを味わったり、自分なりのノウハウを身につけたりする時間が必要です。どこかに呼び出して研修してやればいいというものじゃなくて、自由に、柔軟に使える時間をいっぱい作るということが重要なんじゃないか、と。

……

広田◎ いや、でも、研修をやれというと、必ず予算をつけてそういうつまらない話になっちゃうので(笑)。

……

広田◎ なるほど。いまの教育改革の流れは市場化論、いわば市場による評価という形で教員をさらに追い立てていくような仕組みになっているけども、本当に必要なのは、追い立てておいて激しくチェックするんじゃなくて、いろんな試みが試行錯誤でやれるようなゆとりを教える側に作るということじゃないかと思います。

(以上『アソシエ』 2002, No.7 の32-34頁より)