Welcome to my homepage: 長谷川浩司@ 東北大学大学院理学研究科数学専攻

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最近の動きについて

(参考: いづれも辻下徹氏の、 Academia e-Network Project へ; Academia e-Network letter へ)

2011.2.1 2010年12月の出前講義資料 (於・宮城県立第一高校)

2010.9.1 中央銀行の役割について、有志の方がイングランド銀行作成のものを翻訳されたようである。 たいへん素晴しいと思い此処にも貼らせていただくことにする。 (pdf file.) 最近は数学科でも金融関係に就職する学生さんが増えてはいるが、金融業の何たるかを数学科で教えているわけではない(保険業で必要とされる保険数学は、任意で単位を取れるようになっているが)。そして目下の経済情勢はそれどころでなく、なかなか就職活動は大変だ。これは中央銀行の失敗であると私はかねて同僚に教えられ、確かにそうだと思っている者であるが、デフレ不況は好転するどころか悪化の一途を辿っている。上のパンフレットでもうたわれているような、いわゆるリフレ政策を発動すべきであることを一刻も早く政治家は認識すべきであるし、日本銀行は国会議員有志が提案しているという公開の場での討論にいさぎよく応じ、内部で用いている経済モデルなどについて情報を公開するべきであると思う。日本の学術研究もデフレの道連れで縮小再生産を余儀なくされており、分野を問わず壊滅的打撃をうけつつあるといえるだろう。GDPデフレーターで見る限り15年はデフレであるというのに、新聞をはじめマスコミでの政策論議等でも、中央銀行(日銀)の役割と現状について十分理解された上で議論がなされているとは全く思われない。戦前の大本営同様に民主主義を超越したところで国の運命が決まってしまう現状は、そもそも民主的法治国家の枠組みとして大問題である:橋本内閣で改正された日銀法で日銀総裁は5年間身分が保証されており、総理大臣でも罷免できないし、金融政策決定においても独立性を保証されているため、日銀の独自判断でデフレ誘導がなされていても、誰も止めることができない。日銀の金融政策の失敗こそが、日本経済の困難の源であり、目下の円高の主因でもあり、若者の就職難や年金をはじめとする国家財政の悪化の大きな原因であると思う。

要するに、バブル崩壊後の将来不安でお金の流通が悪くなって以降、日銀は通貨供給が十分でなかった。不況のときこそ金回りに心配ないよう通貨を増やすことが必要である。すべての通貨は誰かの借金として世の中に流通しており日銀券も例外でない。誰も借り手がなければ政府が国債を出すことでしか経済活動が維持できない。それゆえに国債が積みあがってきているのに、これをやみくもに減らすことは、経済を決定的に悪くし社会がより荒廃する結果となる。国会議員の方々は少くともこの程度の認識なしに国債の残高だけ議論してもらっては困る。大体縮小再生産で財政赤字が減るわけがない。日銀はデフレと通貨の量の関係(貨幣数量説)も否定しているらしいが、総合科学技術会議あるいは理化学研究所などで予算化し実証研究して、真偽をはっきりさせるべきだと思う。円通貨が他の通貨に比べて増えていないので円高になるし、それゆえに製造業も国内でやっていけず海外に出ざるを得ず、理系学生といえども就職先が減る一方の結果となる。学生さんには大変申し分けないことだと思い最近は機会があれば説明しているが、もちろん私個人でも大学でも文部省でもどうしようもなく(あえていえば大学における経済学教育の失敗かもしれないが)、昨今は悲しみと怒りで一杯である。仕分けなどの億単位の話でなく、10兆100兆の単位で判断を誤られては、それを修正できる者など誰もいるはずもない。

政治家は、日銀の天下り先といわれる短資会社の国有化を検討すべきだと思う。

2010.3.18 学振の申請書がtex化された: ここここ にある。 すぐに使う予定はないが関係者に感謝。

2009.11.25 政権交代後いろいろあり、 事業しわけである。 これに関して 東大で急遽討論会があり、ノーベル賞フィールズ賞の先生が 参加発言された。どこかにアップされるとは思うが、リアルタイムで memoをとったので おいておく。

(2009.11.26)これについて追記すると、マスコミではスーパーコンピュータなどの大型予算について報道されることが多かったが、野依氏を別にすれば何でもスパコンにこだわっているわけではなく、むしろ若手の育成についての懸念---日本ではもう科学予算がつかないのではという漠然とした不安から、ポスドクは生活保護のようなものではないかという「いいがかり」に近い仕分け人の物言いまで---に対する問題意識の方が強いのだと思う。特に森氏は、国立大学の運営費交付金がきわめて重要である、少数精鋭でなく広く支援をしなくては新しい芽は育たない、と述べていた。これは、厳しい予算状況の中で、ともすれば意義の説明が難しい大規模予算にぶらさがる傾向に危惧を表明したものだと理解できる。「大きすぎて潰せない」「寄らば大樹」型にどの分野もなっていくようでは危ういということだと思う。国立大学の法人化やそれ以前の大学院重点化(そしてさらに、ずっと以前からのオーバードクター問題)に遡る話であって、研究者側が政府組織の中で「負けっぱなし」の様相であることの問題というべきであろう。そうした問題意識は集会の全体を傍聴した方はある程度共有したものと思うが、公開されているビデオを最後まで見るのも大変だと思われるので、上に置いた私のいいかげんなメモも多少の役には立つかと思う次第。

そもそも目下の経済情勢は日銀の問題であると思う私としては、大学が本来果すべき使命は(個別のこうした案件に、勿論理由があってのことだが、一々抵抗するのとは)若干別のところにあるのではないかと思う:デフレを天災のようにとらえている限りこの国の未来はないだろう。マスコミ的にではなく科学的に経済政策と金融政策が語られるよう、とくに経済学者に奮起を望みたいと思っている。

2009.6.6 今期担当している「数理統計学」について、 補足のプリント(pdf) を配布したので、ここにもアップ。拙著「線型代数」の 2009.5 時点の修正(pdf) も。

2008.12.3 ちょっと文科省のサイトを眺めたところ、指導要領の改訂の方向はすでに結構きまっているのらしい。 ここにある 文書 によると、現行の「数学III」と「数学 C」の単位数をあわせ、新たな「数学III」ができ、極限や微積はすべてそちらに統合されるようだ。文系の生徒(特に経済学部志望者など)が微積を学ぶ機会がなくなることがないか、心配になった。 あと、 学士課程教育の構築に向けてという「審議のまとめ」も多少気になるところ。

2008.11.17 関孝和没後 300 年を記念する講演会が15日にあり、以前からお名前のみ存じあげていた鈴木武雄先生とお会いすることができた。「以前」というのは私が学生で母校に教育実習に行ったはるか昔のことで、静岡の和算についての小冊子をいただいたのが鈴木先生のまとめられたものだった。じつは同じ冊子がきっかけとなり、鈴木先生に当時静岡に転居されていた平山諦先生から手紙があって、交流がはじまった由。平山先生は残念ながら亡くなられたが、晩年さまざまなことを直接会話された貴重な方であると思う。その御経験と、それ以上に鈴木先生御自身による和算誕生に関する仮設を伺うことができて、たいへん有意義な週末をすごすことができた。私自身が和算史に直接コミットできるほどの素養がないのが残念だが、平山先生の「和算の誕生」が大変大きな問題を提起していることを改めて感じた。 (鈴木先生のブログへ) (先生からいただいた当日の資料: 2008.9.7 東北数学雑誌:和算論文タイトル| 略歴:平山諦| 結語:平山諦) ( 附属図書館報の関連号)

2008.7.30. 前期末の試験にやってきた留学生(タイ)から、 Project Eulerというページを教えてもらった。 一人の人が折にふれて数学パズル的な問題を作ったのを、web で公開しているというもの。ちょうど今日はオープンキャンパスの日で、高校生(そして引率の先生:ごくろうさま)が沢山きていたが、彼らと数学でちょっと楽しむためのネタなどに使える問題があるかもしれない。 ちなみに、その留学生の彼は、Project Euler を他大学にきているマレーシアの友人から教えられたのだそうな。 (最近めずらしく明るい話題に思って更新。)姉妹ページ:MathsChallenge.net

2007.11.28.知り合いのページに こんなものが貼られていたのでリンク。じつは最近海外ではいろいろ数学ネタがテレビなどに登場してそれなりに人気らしい。日本でもなくはないが本気度が違う気がする:そのものの楽しさというより、国内のはむりやり楽しまされている感じがする。| 動画つながりで追加: 渋滞のモデル化の映像。(2008.3.15)

2007.10.25(久し振りに書く)東北大学に新設される「 国際高等研究教育機構 」の柿落し的な講演会があり、大江健三郎さんと白川英樹さんが来るので見に行った。 この「機構」は、物議を醸した「トップ30」が転じた時限事業である「COE」を、大学として(文科省に約束していたとおり)発展的に解消するものであり、大学として目に見える形で COE の成果を残す/見せるものといえよう。

「トップ30」といえば、小泉氏が当時の遠山文部科学大臣に強く迫った結果として大学を競わせる形で設定されたものである。(そもそも大学での研究成果に政府が優劣をつける発想がいかがかと思うが、その感覚が死につつあるのがより問題かと思う。) そのような機構の発足に、よくこのようなお二人が来るなあと思い、どういうお話になるかなあと思った。こうなったいきさつはともあれ、できたものは仲良く有意義に使ってねというしかないかもしれない。そして実際にそうした話だったと思う。

特に白川氏は、競争的資金ばかりになってしまうことに苦言を呈したこともある方で、こういう組織ができるに至った(小泉改革の下の大学改革の)経緯、そして若手登用といいつつ 5 年の任期つきであり --- すでにその選考はなされており、講演に先だち揃って黒スーツの彼ら彼女らが一斉に起立し聴衆に紹介された、今後の幸多かれを祈りたい --- 定職を得るまでの彼らが奴隷市場のような競争にさらされること、などの全てを知ってのことである。 曰く、これまでも研究者が市民に対し語る場をもつべきだった、 しかしそのような活動で研究そのものの時間がなくなれば本末転倒である、 若手が 5 年任期の間にできることは限られている、 など、話す姿勢に遠目ながら苦渋が感じられた。

前後するが大江さんの話は、ルネサンスのユマニスムの人々にあたる人々が居る、そんな場に東北大学がなってほしい、という至極もっともなお話であった。 技術という知識化・共通化されたものの前に技能という「手についた」ものがあるだろう、その点で理系も文系も作家の活動も共通点があり、そのような人とはたとえば信頼をおいて政治の話もできると思う。ルネサンスにおいてはそうした技能の職の人達が横に連帯して社会の核を形成していた、その現代版があってほしい、という話。 今思い返すと、新組織には不必要に言及せず、東北大学がそうなってほしいというように言われていたように思う(さすがである)。

かなり理系学生を意識していたようで、戦後の少年時代にガリレオの新科学対話を一日 3 行ずつ内容を確認しながら読んだのが今にいたる読書スタイルの元になったとも。(そのはじめの段階で「高い処からとびおりるほど衝撃は強くなる」を確かめようと弟にそれをさせ骨折させた、それで弟氏の仇名が現在にいたるまで「ガリ」である、などと笑いをとっていた。) 抑揚や強調などの話し方を含め、静かに人をひきつける話巧者だった:ノーベル賞受賞のときに、谷川俊太郎さんが(単純に祝すのでなしに)「これまでしてこなかった、もっと他のナラティヴがあるはずだ」と評していたのを思い出した。自分の話をしたあとで、最前列の来賓席ではなく、一般聴衆の中で白川さんの話を聞いていたのも印象的。

個人的にも大江さんを遠くからでも直接聞けて良かったが、大学に直接は関係してこなかった自由な立場で長期的な視点の話をしていただけたのは良かったと思う;いかに期待をかけられようと政府の向からの(元総長の阿部氏のような --- 18 〜19 世紀の数学者、ガロアなど、を引合にだし、思いもかけぬ発展が学問には常にあるものだと言っていたが、どなたか数学の人と最近会う機会でもあったろうか?)の祝辞だけでは息がつまり、勇気づけられるというより鬱である(期待という名の欲望、信頼という名の脅し)。

類似の話だが、先日数物連携宇宙研究機構なるものが、これはいわゆるトップ 5 として認定され、東大柏キャンパスに発足。 ここにあるように、これもまた時限事業で永続性は疑問。こういうプロジェクトもよいが、常勤職が急速に減っている数学などはその間に基礎体力が弱っていくことが心配である。税制改正などで大学への寄付でも増えれば何とかなるような話だろうか? 昨日の学力テスト結果公表(そして言われていたような格差の問題)、またはるか前の安部氏の突然の辞任(にもかかわらず教育改革国民会議が温存されたこと)、についても色々思うが略。

2007.7.14 業務連絡:明日からの玉原合宿に参加予定の日露交流事業の方々へ。14 日の午後、主催者の三輪先生から、台風のため場所を京都に変更すると電話があり、まだ連絡がとれない方があるとのことでした。万一このページを見た参加者は、どうぞメールをチェックして詳細をご確認下さい。(ちなみに私は参加の予定はないです。大分あわてている感じがあったので協力する次第。)

2007.7.14 もはや旧聞に属するが、メールを整理していたら こういうものこういうもの がでてきた。

2007.7.13 拙著「線型代数」4 刷の正誤表を更新。

2007.6.18. 注文する予定の本. ちなみに森田氏は業界から意図的に干されているのらしい。

2007.6.15. 東京新聞や NHK によればパレスチナの内戦でハマスが全域を制圧し、政府議長派=ファタハ は内閣解散および非常事態宣言をしたという。 これを無視できないのは、 つい昨日の天木氏のページ で、 麻生外相の判断によって我が国としてファタハ側に肩入れする資金提供を開始している旨が 明らかにされているからである。日本として内戦の一方を支援することが、はたして国会で 議論されていただろうか。 与野党を問わず問責すべき問題である。 官邸あるいは外務省(あるいは防衛省)の独善(あるいは米国追従)でないことを願いたい。

2007.6.11. 教育 3 法について、成立はもはや止められないのかもしれないが、10 年ごとに教員の身分が脅かされる内容に、教員志望の学生からは不安の声があがっている。私自身いわゆるペーパーティーチャーであり無関心ではいられないが、もとより勝手主義とでもいえる内容も問題である:自由法曹団による政府・与党への公開質問状。これを見ると、たとえ内容に賛同する人であっても、法案はほとんど内容がつめられていない杜撰なものだと思うのではなかろうかと思う。 #一方では、予算を増額して教員数を増やすべきとの声も次第にあがっているが、仮にそうなったとしても上からの恣意的な判断で身分を失う可能性があるようでは優秀な人材は集まらないのではないかと思う。教育系大学の志望倍率はこの春に 5 倍台から 4 倍台におおきくさがったとも聞いた。そもそも日本は教育に国家的投資をなすことなくきているが、国際標準からすればやらずぶったくり的な実態が明かになればこのままの水準では教員が確保できないであろう。教育 3 法の内容については ILO も関心を示しているらしい。 先週は自衛隊による言論監視の実態も明かにされたが (「おはようからおやすみまで暮らしをみつめる自衛隊」) 、文科省による教育政策に限らず施策に批判が許されない世の中であってはならないのは自明である。戦前の治安維持法は、思想検事とよばれた人々の職を維持するために成立した面があったというが、忘れてはならない教訓であろう。--- 学期末に統計をとる目的で行うべき学力調査のため、この先の進度をどう調整しようかと思っている今日この頃。

2007.5.14. 国民投票法案が成立。3 年間の「凍結」期間中も、憲法改正のための常置委員会が衆参に設置されるという。そもそも 9 条以外の条文についても 9 条並みに解釈をたくましくすれば、制定 60 年後の現在でも十分機能すると思われ、実質の焦点は 9 条しかありえないだろう。凍結期間の 3 年の間にどんな政局がおこるか予断は許されないが、狙いすましたような格差拡大の中、ナショナリズムを善しとする素地は十分に育っている。投票年令が 18 歳からとされたことは民主党の発案によるものらしいが、学校での議論が封殺されればかえって盲目的な高揚感による投票数が増えるだけになるかもしれない。そのようにならぬよう、私としては身近な人にだけでもちゃんと考えてくれと絶叫したい気持ちである。

それにしても、このような与党専横的な国会運営を許す小選挙区制はいかがなものだろうか。アメリカでさえ 2 大政党制は勝組み意見しか通らないことが久しく憂慮され、第 3 の政党が模索されているが(アメリカにも州レベルでは共産党さえ存在し活発な所もある)、一旦できた寡占化は政治の世界でも(だからこそ、だろうか)なかなか是正されない。まして現在の日本のように一党独裁が進めば、近い将来に日本は(与党が忌み嫌っているところの)中国あるいは北朝鮮に相似した体制になってゆくであろう。現在でも日本の体制における一般国民の政治参加の機会は埃及と同程度の低さなのだそうである...地方自治体も住民から遊離したレベルに広域化させられつつあり、現実味のある指摘である。

現在の繁栄を許したのは歴史の偶然とさえいえると思うが、それは安易なナショナリズムで保持できるようなものではなく、各所で専門的知識による知的な営為がなされていた。その同じレベルで過去を語り人材を育成しなくては、未来志向もありえないだろう。格差を再生産する方向にあっても恥じない、諸政策における現在の政府の姿勢を危険に思う。10 年前にすでに問題であった(が日本では訳書を弾圧し発禁といえそうな運命とした) the rape of Nanking が映画化され、世界に流通するという。国内メディアの口は閉ざせても世界中の口は閉ざせないということであろう。政権のお手並みを拝見せざるをえない状況が続きそうであるし、ぜひ為政者には正面から逃げずに問題にむかってほしい。それにより彼らは、組織によるのでなしに地金で、自身の人間性を露呈し評価されることになるだろう。

ところで、まだ現代が現在になる前の希望の時代の証言のようなものを見ることができた。社会問題とはある意味まったくかけ離れてはいるが、ある種の希望がやはり伝わってくる気がするのでリンク: サイエンス・チャンネルより。 実際このシリーズは秀逸でありこの他にも貴重な映像があると思う。先日の「立花隆氏の論説は必読と思う。」もさらに必読だが。

2007.4.17. 憲法改正のための国民投票法案が衆院を通過し、昨日参院へ。私が非常に悲しく思うのは、議論がもりあがらないだけでない。学生と話をしても、この手の話題について彼らには全く危機意識がないのだ。(そもそも小選挙区制が民意をゆがめて反映する結果のこのような政治状況なのであるが、だからこそ有権者は非常な努力で投票行動を決める必要がある。)ともかく、「普通の国」論はおろか、日中戦争における日本の行為にすらまったく無知であるのには慨嘆する...。(◯◯◯◯◯◯の漫画を見てるだけでどうする!9 条は守るべきだ。)国民投票法案については、とくに最低投票率について、たとえ改憲派であっても、ごくごく小数の賛成でも改憲されてしまう法案に疑義を呈するべきであると思っている。(9 条云々に関らず、たとえば日本を宗教国家にする道さえきわめてハードルが低く、およそ理性の伴なった議論ができない国になる可能性がある。)参院をたとえ通ってしまっても、少なくともその後の 3 年間は理性が取り戻されなくてはならない...。なお 立花隆氏の論説は必読と思う。

ちなみに今朝は Virginia 大学で銃の乱射事件。大変なことだが、日本で今後どのように報道されるか興味がある。以前コロラド州の高校で同様の事件があった際は、犯人が向精神薬というべき薬剤を服用していたことが日本では報道されず、精神論に終始していたように思う。今回も同様に医療制度の問題である可能性があるだろう。すなわち、怪しい薬剤を世界的に流通させる製薬業界が医療に歪みを招いているのではないかという問題である。日本でも2005年、ある種の保険薬が低年齢層には自殺などの衝動的行動を招くとして禁忌とされていた:参考

2007.4.5 教育基本法の「改正」はまさに痛恨であったが(例えば小学校6年、中学校3年の義務教育の年限規定も消え、今後の法制によっては学校に行きたくても行けない戦前や江戸時代のような状況すらあり得る)、憲法改正の手続き法である国民投票法案が同様の過程を着々と辿っているのには更に絶望を感じる。これについての基本情報が ここ にあった。たとえば「過半数」の定義を「有権者数の過半数」でなく「有効投票の過半数」とすることにより、大半の者が(白けて)投票にいかない中で組織票による改正が可能になるなどの大いなる問題がある。白ける状況を作るためのキャンペーンについての規定もしかり、手作りの市民活動は禁止に等しい扱いを受けかねない。とてもマトモな民主国家とよべない、旧ソ連か北朝鮮のような体制か、百歩譲って軍事産業に興味のある大企業むけの体制への「国作り」が射程に入ってしまっている...。

ついでのリンク:こことかこことか。こことかも

2007.4.4 3 月が怒涛のように終わり(無事研究会も済み)、新年度へ。この間に教育改革関連でも(初等中等教育についてもだが、大学についても)色々と問題のある政府方針が示されたが、あるロシア人の先生にそういう最近の傾向を話題にしたら「政府のやることは当然そんなものだ、何も知らずに理不尽なことをする」とはじめから笑われてしまった。さすが国家の崩壊を生身で経験しただけのことはある。(この先生は体制崩壊後に給料が紙切となった祖国を見限ってアメリカに渡った人。)

いちいち批判する余裕もないので、我が意を得た感じのする こちらをリンクしておくことにする。

2007.3.1. 準備してきた研究会が目前にせまってきた。このところ毎日数 10 通のメールを書いていたがそれも収束しつつある。多くの方に参加していただければと思う。 京都での研究会翌週のセミナー についても情報を up.

ついでに? eprint に論文を up した。

2007.2.7. ネット上にある悪魔のシナリオが載っていた。一方では為政者と(私の泊まったこともある) ホテルグループとの暗黒も伝えられつつ、大きくは報道されることがない。どんな良識も視覚に勝てないのであろうか。そうでなく情報操作によるものと思いたい。

2007.2.6. 政府の教育再生会議の提言がまとまりつつあり、地方教育行政法などの書き換えも検討が最終段階にあるらしい。いわく、教育委員会が学校のチェックという役割をはたしていないと認められる場合、文部科学大臣はこれに是正勧告(実質的に命令だろう)を行えるようにするとのこと。

これは非常に危険であると思う。現在でも「指導力不足」のレッテル張りに恣意的な運用が行われ、思想信条によっては不利益を被ることがある。政府にとって目障りな教師を失業させるには、その学校を監督する教育委員会を睨めば良くなるのだ。

2007.2.4. プログラムを少し更新。やっと海外組のすべてと連絡がとれた。(ドタキャンの可能性なしとしないが)

2007.1.20 3 月の研究会情報を更新:プログラム暫定版など。 名古屋大学のページ にも掲載していただくことにした。

「教育再生会議」の答申がそろそろでるようだがコメントの意欲がうせる。岩波「世界」の記事では今後の教員数の確保が懸念されていた。叱咤叱咤(そして少しばかりの褒賞)では現場の教師は私以上にやる気が失せるだろうし、なり手も少なくなろうというものである。社会人の登用もあわせ、結果として教員の質を下げることにならないか心配する。とりあえず薄すぎる教科書が元に少しは近づく程度が唯一に近い成果となるのではないだろうか(それも義務教育においてすら有料になる懸念なしとしない。なにしろカイテー版教育基本法では「親が一義的に教育の義務を負う」ことになったのだ!)日本語として矛盾のある「ボランティアの義務」も、海外活動が本来任務となった自衛隊の員数不足にそなえた準備となるかもしれない。野依先生には悪いが自ら晩節を汚しつつあるように思う。

ちなみに最近ネットといってもいわゆる SNS で意見を見ることが多く、ことのほか愛国心のある方々の意見が席巻していて不思議だった。しかし昨日のある方の日記によると、大手広告代理店の子会社だからその傾向はあたりまえなのだそうだ。関係各方面に都合の悪い情報がでないよう、トピやスレを削除する操作がなされているという。酷い話だが入会時に小さい字でどこかに書いてあったということだろうか。広告を扱うというまさに表現の自由を守るべき人々が一般人の表現機会を奪っているというわけだ。与党側で職業的に動員され日記を書いている人もあるのかもしれない。

2006.12.21. 教育基本法の問題は義務教育の維持(!)を含め今後の各種法制に注目しなくてはならない。他方、 横浜市大 都立大あらためクビ大 の状況についても、あらためて見て酷い状況であると思う次第。どこかのブログで見たが、国民が与党を支持しても与党は国民を支持しない(虐待しつつある)という状況。これは税制などが主に語られるが、むしろさまざまな形で、大本営化したマスコミ情報で一般がよかれと思って支持しても、現場では全く反対の恣意的状況がおこっていることと思う。

たとえば先生の技量を高めたいのは山々でも、財源も示されないどころか給与引き下げを一年先送りするから有難く思えという程度。教育再生会議などと銘うつのならば、予算の確保を先にしたら?え、野依さんよ、20 年前に一台一億の NMR を 3 台買える予算をとってきていばっていたでしょ、と思う。(さらに野依研究室の昔について、本学の化学の先生に聞く機会があり、複数の方が生命をなげうった事態があったという話にそうだろうなと思うところがあった。まあ他の方が座長をするよりは良いかもしれないが、クビ大の初代学長のことをはじめ、鳴り物入りの裏方はそのようなものだろう。) シバキ的な養成(要請)のみが語られることで、むしろ優秀な人が教職にきてくれない事については、先日東京で開成の先生からすら聞いた。もはやセレブあるいはプチブルの階級すらこれまでの良い教育を期待できない状況が政治的につくられていると思う。これについては学術会議関連(旧数研連)関係の提言ができないか、 K 大 F 谷先生発のメールへの反応の形である先生にメールしてみた (学術会議は今やお寒い立場として提言が有効かが疑われそうであるが、総合科学技術会議も沖縄科学技術大学の問題もはらんでおり万能ではないだろう) 。東大で中学の理数系免許がとれないとしたら大きな問題である。----何度も書いているようにこれは主に介護実習の義務化によるところが大きいと思う。

こんな中で絶望しないで勇気をもつことは難しいが、本屋の片隅にあるかもしれない雑誌「数学文化」007 号の巻頭言に力づけられた。敬愛する先生の一人、福井大學の黒木哲徳先生によるもの。できればぜひとも全文を紹介したいところ。(今号は算額の記事もよかった。社会的立場のためには、ひょっとしてわれわれも算額を奉納したりすると良いのかも??)

2006.12.18. OhmyNews より追加。 それにしても、NHK は予算の時期なので抗えず、民放も野球のストーブリーグの方が大事だったということだろうか。返す返す情けなかった。経済の健全な運営のためにも、中流階級の維持は重要であり、少なくともその面から今後の教育のありかたを民放の重要関心事にしていただきたいところ。

2006.12.17 早朝。 「美しい国」へ学校一変?」: 東京新聞の憂慮あるいは懸念。社会(!おそらく「作る会」的教科書が今後は標準化されねば、このままでは、この流れはすまないであろうと思う。)や国語の教科書の内容が一変するだろう、地方自治体の下の各教育委員会の判断であったことにも国の支配が及ぶだろう(まして教員組合の関与は、正当な学問的提起であっても「不当な支配」となるだろう=原初10条の改変による)、教育振興基本計画を立てるのは「政府」であるので防衛「省」も関与しうる、などのポイントがおさえられている。衆参の議論でこのような事項ははたして議論されていただろうか?

# 一方で予算が多少増えるようであるが、今朝の NHK ラジオ第一の 5 時のニュースによれば学力調査テストや子供の悩み相談電話の経費などの 4 % 増ということである。政府予算における教育経費は、わが国ではおよそ諸外国のほぼ半分(GDP比)でしかないということは有名であるから、年次進行であれ本来は 100 % 増で丁度良いことになるが。

(報道でなく)文科省発の地方への関与ということの前倒しとして、例の未履修問題の発覚した県立等高校長について、地方自治体公務員であるにもかかわらず 本省から処分のモデル が示されたらしい。今後の教育に対する色のつき方に鑑みて、各地方では是非とも反発をあげてほしいと思うところ。少なくとも地方と中央とは対等な議論を展開してほしい。

実際現場では、各高校=教育現場のみならず、県庁や地方議会レベルも含め、噴飯であるはずである。そもそも「教員を週休 2 日にせねば、他の公務員との勤務レベルのバランスがとれない」「なので削減してゆとり教育にする必要がある」「しかし大学教育は(専門性が大事であるしマンパワーもないので)受験レベルは不変である」「さらに父母の受験指導への希望も強い」という連鎖の結果、おそらく善意の苦慮のすえにおこったのが受験指導を必修によみかえる未履修問題だからである。首都圏以外の地方にとっては、それなりに官僚クラスの人員を育てることは、地方の意見具申(補助金の獲得その他のため)にも必須課題であって、それが公立高校で担保されるべきことは必然である。そのための高校長の善意が処分され、さらにそのことに全国知事会等が何も発言しないとすれば大きな問題であると思う。

(また、原因を作った指導要領改訂を策定した側の責任や、そもそも指導要領の法的地位も問題である。当初は現場の教師が参考あるいは批判的によめる、いわば同僚の文書であったはずである指導要領のはずが、いつの間にか隔絶した上下ができてしまった。)

私としては、あまねくどの地域どの出自にあっても、普遍的な学問的環境への接点が確保されるべきであると思うので、これはきわめて控えめな(=自治組織を維持するというだけの)レベルのつもりである。(たとえばセンター試験で「裏番組化」した物理の先生がいない高校は現在数多いが、現代文明・現代経済を理解し維持するために物理の知識は欠かせず、これはすなわち自治能力の有無に直結する。こうした事態への責任はどこに帰されるのであろうか。) 戦後一時実施された後に保守派の反対でなしくずしにされた、教育委員の公選制も今後再検討されるべきであろう。(小選挙区制によってさらに一党独裁へと進んでいくならば、こうした極めてローカルなことが現実の政治選択の余地を残す道となる可能性がある。このような時々に左右する政治関与 の可能性に配慮していたのが原初教育基本法であったというべきであるけれども。) :1956 年のいきさつを参照。

ローマ時代の初期キリスト教団が、社会の規範として制度的にとりいれられるのと平行し、しかし祈りだけでは社会が改善されるはずもないことへの対策に「magic」の概念を導入したらしい話も(私は非専門家だが)頭をよぎる:The rise of magic in early medieval Europe という本があったはず。公明党はどこまで自民党によりそい、あるいは社会の改善に責任を持つ所存であろうか。

こんな中でも絶望しないための必読書として、大江健三郎「伝える言葉プラス」、内橋克人「悪魔のサイクル」をあげたい。後者は特に、政府(与党)は常に不景気の時に教育に口を出す傾向があること、また洋の東西を問わず不景気が右傾化あるいは好戦的傾向を生むことのため重要である(参考:私家版 戦後日本文教政策史要約年表tex file/pdf file)

2006.12.16.テレビや全国紙が伝えなかった国会前の真実: 教育基本法・参院委員会強行採決に講義 / 採決後の様子。 (by videopress, on youtube.) タウンミーティングでのやらせ(読売報道によれば銭谷初等中等局長=東北大学教育学部卒、当時生涯学習局長=もやはり関与していたようだ:少なくとも岐阜会場にて。訓告処分の由)がメディアで重くとりあげられなかった背景には、引き受けた大手広告会社がテレビとわかちがたい関係にあるからだという話もあるようだ。一義的には主催した政府に問題があるわけだが、もっともらしい話である。

ちなみに NHK の週間こどもニュースでどうとりあげられるか?とも思ったので時間を作ったのだが、今日は別の話でお茶が濁されていた。一体どうやったら正面からとりあげられる話だろうかと思うので来週に注目したい。

2006.12.16 早朝. 巨大与党の数の横暴で改正教育基本法が成立してしまった。なんとも虚しいものがある。愛国心もだが、政府与党から教育委員会経由で現場まで指揮命令系統ができてしまったのが今回の改正の目玉であろう。与党に近い立場の文科省関係者、あるいは各地の与党関係者には、影響力を発揮できる場がさまざまな形で増えるであろう。現職の先生がたには教員免許剥奪の恐怖もともなった「再生会議」の提言がつくであろう見通しであるし、これから採用される教員はこうした中枢側の立場であるか、あるいは極端に思想に鈍感な専門家ということになるのではないかと思う。美しい国か何か知らないが、藤原一門あるいは平家一門のような栄華を一部の者たちが謳歌することになるのではないか。教員採用試験の透明性はこれまでも十分でなかったと思うが、まずはそのあたりがどうなってゆくか注目せねばならないと思う。そもそも信条や門地で職業機会を左右するのは上位法である憲法に抵触する。あたりまえの話だが。

いきなり多少こまかくなったかもしれないが、義務教育の年限など現在の 6334 制の維持すら今後はあやしくなる(9 年の義務教育をおく、の文言が削除された)。政府・与党にフリーハンドを与えてはならない。国際的には高等教育(大学)まで漸進的に無償化すべしという条約を各国が批准しているが、日本はそれを批准しない唯一の先進国として有名なのだから。各自の能力に応じて教育をうける権利(第4条)というものは、結局格差を固定化することのいいわけになるだろう。

おそらく中央ではすでに想定されているとは思うが、この改正教育基本法自体が憲法違反であるとして裁判がおこることは十分あるだろう。(どの程度の条件が整えば提訴できるのだろうか?)

国内では今のところ大したことはなく捉えられているような気がするが、防衛庁の省昇格とともに外国に発信された報道のほうが本質を語っているように思う。かけ声とはうらはらに教師の心身疾患による休職がここ数年で急速に増加しているという報道が皮肉であった。現場では今後、より過大な、あるいは良心に反する理不尽な要求を課されることが増えるのではないか。(くわしく書けないが、この種の理不尽が遠因であると思われる沈痛なことが身近にあった日でもあった...。)

2006.12.15. 日付がかわった直後だが、昨日は参議院特別委員会を教育基本法改正案が通過してしまった。今日は現行教育基本法の命日となるのであろうか。マスコミ各社の報道のてぬるさがうらめしい。12 日に書いたアピールの件についてもどこもまともに報道していなかったように思う。そもそも公聴人を呼んでおいて、その意見内容についての審議もしないとは、一体どういうことであろうか。

今からでも無期限で喪に服したい気持ちであるが、一縷の望みをもちつつ、 ネット上にせめても このようなもの があったので貼っておく。

2006.12.12. 【アピール】公述人・参考人として教育基本法案の徹底審議を求めます」への市民緊急賛同署名に署名した。署名の期限は明日 13 日朝 10 時とのこと。 詳細については 教育基本法「改正」情報センターのホームページ 参照。ところで、このような運動が報道すらされずに国会内の政局の一コマとしてのみ法案審議を扱うならば、もはや日本の報道は死んだというべきであろう。昨日の「安倍内閣支持率急落」報道でも、審議中の案件についてはきわめて自主検閲的な報道ばかりであった。NHK の場合、「政府のいじめ対策のうち有効なものはどれと思うか」程度しかアンケートしないとは何たることかと思ったものだ(他も聞いているのかもしれないが、重みがまったく違うだろう)。そもそも官僚の人々からも、与党の進めている教育改革には、「こんなの不可能だよ」という悲鳴があがっているように聞く。政府統制が戦前のように強まり、しかもその統制する側さえもが困惑している。このような教育基本法「改正」案はぜひ廃案にすべきである。

2006.12.10. 週末、中央大学で行われた encounter with mathematics に参加。じつは encounter with mathematicians ではないかとも言われていて、かつての同僚の仕事が今聞くと分りやすかったりして大変良かった。懇親会席上、某 T 大 O 教授から、今度経産省の同級生に会うが何か言ってほしいことがないかと聞かれる。(めったにない機会である。)思いついたのは、大学の教科書などの出版社の方から聞いた本の在庫への課税と、教育関係の各種シンポジウムで聞きかじった義務教育の教科書への国庫負担が増えない現状のふたつで、経産省として何かしていただく余地があればと話題にしてほしく伝えた。前者は自分で本を書くまで知らなかったが、在庫への課税が名著であっても品切れの状況を生みやすくしていると思う。(諸外国の制度やいかに?英語圏の場合は、英語圏で税金の有利なところに在庫を置くこともあるであろうか?)専門書の商売は細いものなので、こういう有利不利が数学をはじめ色々な分野で知識の流通ひいては分野の盛衰を決めかねないところがあるように思う。教育基本法の改正も(徳目科目を全面に出すことになるようであるし)もはや日本の将来にとって絶望的に思われるが、税制改正もより卑近なところで影響がありそうである。

2006.12.5. 研究会の Announcement を改訂。tentative titles を追加した。 (12/7, 更に追加。)

2006.11.10. 教育基本法改訂問題について、タウンミーティングでの「やらせ」の詳細などが ML 経由で入ってきた。 (この ML は、国立大学の法人化に際し反対の新聞広告を出す趣旨で発足したものである。) かなり生々しいが、記事にあるようにここまで証拠が残っているのも珍しいということなのだろう。 補助金のことなどが頭をよぎると現場では断れないということだろうか?PTA 会長が協力者になってしまうという現実。「おわってる」と思う。

2006.11.9 アメリカの中間選挙でブッシュ共和党が後退。アメリカの強権的な姿勢がかなりかわることになるだろうか。 そもそも 9.11 のテロはゴアが勝っていたらなかっただろう、とある敬愛する教授が言っておられ、なるほどそうだと思ったのは そう昔ではない。(あの日はたまたまロシアに居たのだが、ロシアでも飛行機が全便止まったと聞き帰れるだろうかと思ったものだ。)ブッシュがかえって世界の治安を悪くしたのではないかと私も思う一人である。

ふりかえって日本では、小泉前首相が「テロとの戦い」に諸手をあげて一早く協力を表明し、結果として 中東状勢の今日の混迷に手を貸したところがある。自衛隊派遣についての「自衛隊の行くところが非戦闘地域」という 論理のなさは、それ以外の政治の場でも議論の軽薄化を招いた。 憲法改正をぶちあげてみせたのも初めは政権浮揚のための軽い考えだったかもしれないが、 世界状勢に名を借りて年来の願望を達しようとする勢力を結果的に利しただろう。 アメリカの選挙結果は、こうした傾向に少しは変化を与えるだろうか?

昨日は山崎前副総裁が非核 3 原則見直し論をあおる同僚を批判したとの報道もあったが、それ以上に 驚いたのは某 SNS 上の日記群での反応であった。日本は核廃絶を訴えるべき立場にあるという(私が思うにまっとうな) 主張よりも、議論して何が悪いという方の方が数が多かった(ようにみえた)ことである。 タウンミーティングで「やらせ」がある位だから、与党がこんなところにまで動員をかけているのかもしれないが、やはり すでに若年層が相当の右傾をおこしているということかもしれない。IAEA による国際的な核査察という仕組は、そもそも 日本が原発を作る際に核軍備をうたがわれてできたものだと聞いたことがある。この疑念の下には、日本はしばらくしたら また何かするつもりだろうという国際社会の目があっただろうし、今もそれは変わらないだろう(日本はプルトニウムを 貯め続けている)。何かの拍子に(今すぐでなく数十年後ではあろうが)、日本が世界から現在のイランや北朝鮮と同様の 「危険な国」と見られない保証はないと思う。

こうした意味でも教育基本法の論議はまったく的を外しており慨嘆する。 参考. 為政者がいいように宣伝に使って(大東亜共栄圏と その盟主たる大日本帝国という幻想をあおり)戦争へ転落していった反省から、政府の教育への介入を阻む役割が現行法には 期待されている。具体的には前文であり、教師は国民(国でなく、被教育者)に直接義務を負っているという条文であり、また 第 10 条に述べられた行政は内容には口出すべからず、条件整備にのみ努めよという枷であろう。(このような的確な文章は 新聞では立花隆が火曜の朝日に書いていたが、それくらいしか無かったのが情けない。)

仙台で開かれたタウンミーテングでも、こうした政府への要請たるべき法のあり方をまったく外した議論になっていたようであった。 そもそも PTA 代表という方が自民党の推薦で出ていたのにも驚いた。いわく、時代が変った、家庭教育が大事だ、というような 御意見であったらしい。家庭教育はたしかに大事だとしても、現在のような経済状況で家庭こそが教育を一義的に負うとされた のでは、貧困が世代をこえて構造化されるのは目に見えている。基本法改訂で教育予算が付くというのも大きな幻想であろう。 ついてたかが数年間だけで、公立学校同士を無意味に競わせるらしい新構想の元では「負け組」学校の予算を削減するだけに 終るだろう。そのような消耗戦がある場所にどんな優秀な人が生涯をかけ赴任するだろうか。

(参考)

(あれもやれこれもやれという議論の結果のひとつとして、たとえば介護実習を中学教員希望者に課すということがあった。 この結果今では東大の理系に進んで中学の先生になることはできなくなっているとも聞く。大人(老人)の願望がどれだけ 実情をゆがめるか、言いっぱなしでない検証が必要であろう。教育に口をだすには教壇に立たねばならないとかねがね思っているし、 まして政治家に口を出させるのは誤りであると思う。)

仙台でこの政府広報が開かれた理由は知らないが、さきごろテレビに登場していた銭谷眞美という文部官僚は 東北大学教育学部出身のキーパーソンであり、 関係がなくはないだろう。ゆとり教育問題のときも擁護あるいは推進側であったと思うし、今後の教育界のありかたに 大きな影響を与えていることは十分責任を感じてほしい。大きな影響というのはおそらく控えめすぎる表現でないかと恐れる。 何年もたってから「あそこが曲り角だった」と思う日がくるのではなかろうか。

ちなみにこのようなことを思ったとしても書けない小中高の先生がたというのはかなりいるのではなかろうか。東京都における 知事の圧力のような災禍が今後全国の標準にならないとも限らない。

長くなったついでながら、先日書いた安倍氏提唱の「ボランティア義務化」については、 彼の教育再生会議でも誰も提案せず放置されているらしい。実効性と実現性を語る勇気のある人がさすがになかったであろう。 実効性についてはいろいろな意見があるかもしれないが、 全員に対する義務化は以前、森総理時代の「教育改革国民会議」でも「1 学年 100 万人をどうやってどこに配置するのか」と、 座長であった江崎玲於奈氏に一笑に付されていたのであった。(銭谷氏は、この会議では事務局をつとめていた。) 政治家による教育への提言の典型のようなものであると思う。

(早朝に研究会関連のメールを書くついでがつい長くなった!)

2006.10.10. 拙著「線型代数」(日本評論社)の 4 刷決定に感謝、2500 部。 3 刷から 4 刷への象嵌表(2006.10.10)をアップ: (tex)| (dvi)| (ps)| (pdf)

2006.10.4. 3 月に計画している研究会の announcement (上掲)を改訂した。

2006.9.27. ついに安倍内閣誕生。臨時国会でおそらく教育基本法も改悪されること必至であろう。圧倒的多数の中、言論がむしろ衰退している自民党はすなわち統治能力の衰退を表しているであろうと思う。社会には必然的に多様な言論があるからである。このような多数となったからには、自民党は国会内の活動にあたり党議拘束などは外さなくてはいけないのではないかとも思う。(米国という「2大政党」の手本ではそうである。ちなみにアメリカにも共産党などが存在するしけっこう活動しているようである。)そうでなくては一党独裁の旧ソビエト連邦と同様の衰退を迎えることであろう。

ちなみに今日の NHK 「明日を読む」は面白かった。早川解説委員による、新政権の教育改革関連の政策構想の批評であった。とりあえず右か左かはとりあえず関係ないものであったと思う(それでも現中枢からは左とみなされるのであろう)。最後の〆の言葉で「もうすこし現実を見て、現場の声もきいて」という趣旨のことを委員が述べていたのが笑えた。まったくそのようにしかいいようがない域でしか、新政権の教育のお題目は語られていないからである。たとえば早川委員も述べたように、いわゆるバウチャー制はいくらかの割合で公立学校に死の宣告をするに等しい結果となるであろう。そのような重大なことがらを、年内に 10 人程度の会議で決定し次年度に実行するというような権能を、彼らはどのようにして正当化するのであろうかと思う。

大学の 9 月入学についてもそうである。私立大では単年度ながら半年間授業料収入がとだえる事態を注視している。それに、すでに書いたが、まるっきり忘れた状態で入学してくるという教育上のコストは無視できない。ちなみにイギリスではボランティア活動中に世界の課題を見ることが期待されているらしいが、日本語という世界の小数言語圏ではそのようなことは期待できないであろう。むしろ地域ですら、ボランティアの生徒(学生?どなたかも指摘していたように、高大のはざまで所属がないフラフラした状態に全ての人を置くことになるのであるし、その数は全国で 100 万人規模となる。このような数に対してボランティアを行なわせるというのはどのようにして可能であるか。かの森政権下にあって森氏の私的会議として行われた「教育改革国民会議」においても同様の提案があったが、議長的役割をはたされた江崎玲於奈氏は一笑に付したものであった。

そもそも現在、中学教員になるため課されている 1 週間のボランティア活動についても、引き受けてくれるようなところはそれほどは無いのである。山奥であれ老人施設に行こうと思っても足手まといとみなされるのがオチであるようだし、より深刻な介護が必要な現場にあっては専門知識がなくては生死にもかかわる。まともな「ボランティア」をするには貴族的コネが必要な状況になっているのではないか。要するにボランティアは間にあっているのであり、さらなるサービスが必要であるとすれば専門職として遇すべきことがらで財政出動を考えるべきであろうと思う。このような環境の中で、100 万人に勉学も忘れ何をさせるのか?草むしり?それで良いのならそれで良し。しかし、もうすこしマシなことをしたいと思っているのであれば、同じだけの労力を失業対策事業にふりむけるべきだ。100 万人が職というか食を得ることができれば、どれだけ民心の安寧をかちえることができるか、(某議員曰くの)七十光の新首相にはよくよく考えていただきたい。そうでなくては、また早川委員にチクチクされるだろう!がんばれ新首相。がんばれ早川さん。

ちなみに笑い話のようなことだが、高大とも責任をもてない立場にある 18 歳人口にボランティアを本人の自助努力(コネその他)以外で何とか窓口たりえるとすれば、まずはおそらく市区町村であるだろう。しかしこれは機関委任事務的な話で、きっと市区町村には迷惑であるに違いない。するとボランティア義務化の暁には大学入学者は減少し、日本は「小数精鋭」でいくのであろうか?あるいは、大学入試センターが大多数のボランティア義務漂流者をうけとめる立場になり、マークシートで本人の希望を聞きつつボランティア先をあっせんすることになるのかもしれない。大学入試センターも独立行政法人となって国会の評価をうける立場であるので、新業務を得て拡大の機会を与えられることは歓迎するかもしれない。笑。こうして文科省と徴兵制度が結びついてゆく契機がより現実のものとなるかもしれないと思う。

2006.9.1. 新政権は安倍がほとんど既定路線になりつつあるというが、昨日の報道によれば「教育基本法改正」「憲法改正」のみならず、安倍氏の教育改革は(たとえば)高校卒業直後の 3 ヶ月の奉仕活動義務づけなどを含んでいるらしい。こうした全体主義的路線には強く反対したい。大体入試のあと 3 ヶ月(以上?大学は 9 月入学にすべし、らしい)休んでいたらかなりの学生は学んだことを忘れて大学に入ってくるのではないだろうか。文化小革命程度の影響を日本の社会の今後にもたらすであろうと思う。そもそも「最近の若いやつらは」というような年でも安倍氏はないのではと思うし、若者に夢をあたえきれていないのはマクロには経済の不調があると思えてならない。経済に安倍氏は責任をもたない(日銀など担当部局丸投げ?の)ように伝えられるが、誰が見てもサラブレッドであるからこそそのような中心的課題に責任ある発言をするべきではないのかと思う。(そうでなくては、靖国論議も含め、自身のよってきたる社会的階層---が夢想してきた「国家」像---を保持せんがための社会へのコミットであると言われても反論がむずかしいのではないかと思う。あるいは反論するつもりもなく、それが確信であるかもしれないとさえ。)おそらくこの「奉仕活動」も、関係学会が気づいたときには、ゆとり教育論議と同じく手遅れになってしまうのではないかという危惧を、昼休みにある教授に話した昨日であった。本来的に学術・教育に素人である政治家や官僚にふりまわされないよう、政策論議には学術各方面も注目していなくてはならないと思っている。

旧ソ連ならまだしも、もっとはげしい転落となる前に、中枢が目をさましてくれることを期待したい。まずは憲法改正などより小選挙区制を中選挙区制にもどすことであろう。もし党議拘束をはずしたくないのであれば。

2006.6.24. 仙台数学セミナーの記録を リンク

2006.6.11. 2007 年 3 月の研究会「数理物理における新たな構造と自然な構成の探求」の First Announcement(ps file)を(上に)掲示。

ちなみに COE は数を半減しそこにこれまでの倍の予算を集中させるらしい。(大学も徹底して勝ち負けをつけよというのはいかがか。)一方教員免許は母校での実習を認めない方向とも。評価が甘くなるというのが理由のようだが、2〜3週間でできることには限りもあるし、あらかじめ気心が知れたところで色々な話ができるメリットもあるように思う。きびしくしすぎて優秀な人材が教職から逃げないであろうか。教育基本法の問題といい、現場が右往左往しているうちに文科省のシナリオであれこれ決められていく印象がある...。

2006.5.17. 教育基本法「改正」情報センターをリンク。

2006.5.9. 教育基本法改正案、衆院特別委員会設置きまらず だそうである。教育基本法の改正は日本の将来に重大な影響を与えるであろうと思い、私は反対である。 とくに前文の愛国的主張への全面的改訂と、第 10 条の換骨奪胎に反対する。しかし何が何でも通す態度を与党がとるのであれば通ってしまいかねないこの状況をどうしたら良いだろうか??絶望感にかられる。 現場では愛国心について 5 段階評価がなされるであろうし、反対する教師は放逐されるであろう。このようなリアルさでこの条文を考える必要があると思う。

2006.3.9. 小泉首相が教育基本法の改正作業着手を指示。平和を希求すべしという前文の格調高さや、第 10 条にうたわれている教育行政への戒めが失われることは間違いなく、「愛国心」についても強要される形になるであろう。とくに第 10 条の文案は「教育は不当な支配に服することなく...」が「教育行政は不当な支配に服することなく...」になると伝えられている。このたった二文字の挿入によって、教育現場において政治・行政の圧力に良心的抵抗をすることが法的に禁じられると言ってよい。政治的邪心が教育現場に直接影響を与えることを可能にするものであり、 この国の近未来にとって大変な禍根となるであろうと大いに危惧する。不景気の間のテレビ政治によって、日本の政治的状況はきわめて非民主的な方向に向かっていこうとしている。日銀の金融政策転換も伝えられたが、国の今後の経済運営は人々の頭を明晰にさせるであろうか。

2005.12.8. こんな文章 を書いた。じつは夏からずっと書いては書き直してはしていた。 ところで選挙制度にまで小泉氏が口を出しそうな勢いである。 小選挙区制にした際には菅直人らをはじめとする発言があったと思うが、今となっては 選挙民の意図が必ずしも反映されやすいとはいえない、いわゆる死に票が多い 制度であることは明らかである。参謀の知恵か本人の知恵かわからないが、小泉氏は それに乗じて現政権の転覆不可能な体制を作ろうとしているように見える。要するに 中央の人間のやることには反対が述べられないということである。 我々は The making of the English working class という本でも読むべきであろう。 下々で揉めていれば国会でも揉めて当然である。そのように各会派が存続でき るよう、各県単位の中選挙区に戻って欲しいと思っている。そうでなくては中世の 教会や、さらに戻った古代王制のようなものに、小泉劇場が発達してしまわないかと思う。

2005.12.1. リンク先 だまらん がリニューアルされた。 だまっていてはいけないことばかりと思いつつ鬱で思うにまかせない今日この頃である。 ちなみに昨日は教育基本法改正に公明党が重い腰を上げたとも伝えられた。神崎党首いわく、 「中教審で答申された以上は賛成しないわけにいかない」。 しかし中教審のメンバーが密室で選ばれているのに対し、まがりなりにも 民主的に選挙された代表が構成する国会としていくらでも議論や反対はできるはずである。 党首の言も公明党が教育を政治のかけひきで使うことにした以上の意味がなく、自民圧勝後の 自らの政権内の存在理由を模索する中で安易に自民すりよりの道を選んだというべきであろう。 早ければ数年後には「国を愛する心」読本などが配布され、 「国を愛する心」科目の教師が養成され、数学や理科やら英語やら...がより一層軽視されて ゆくのではないかと危惧している。

2005.9.12. 昨日の総選挙。自民の大勝は若年有権者の投票行動が大きかったと思う。大衆煽動を見た気がするし、それを可能にしたマスコミの「おもしろおかしい」報道姿勢にも疑問がある。いくら面白いネタを提供されても、汗をかいて走る候補者を追うよりも個々の政策について専門家の目で(ワイド番組の常連でなく)点検する姿勢が必要だと思う。それを怠るならばマスコミも不誠実のそしりを免れないだろう。誠実な政治プロセスは手間がかかりつまらないものなのだと思う。例として、鳴りもの入りで行われた都立大の実体が参考となろう:

事務屋のひとり言

とりあえず株は上がっているようだが、郵政法案の結果としてデフレ圧力があるといわれている。国債の引き受け手がなく官需が減少し、民需も限られるからというのが理由だと思う。(日本の公務員はすでにアメリカと比べても人口比で半分以下であるから、公務員削減はまったく解決にならない。)職に苦しんでいる若年層にしわよせが行き、今後右翼的思想が勢力を増し改憲に勢いをつけないかと危惧する。新たな戦前を招かないよう、民主党には福祉国家への方針を示してほしいと思う。詳しい同僚によれば、政策的には(綿貫氏が主張していた景気回復と似ているかもしれないが)日銀によるインフレ誘導が最も良いらしい。というより、現在も続いているように思われるデフレの要因は政治にはなく日銀の金融政策によるものという。日銀の独立性を高め首相でも首をきれなくしたのは橋本内閣であった。日銀はマスコミ対策も万全で失策がメディアをにぎわすことはないという。こういうことをどの政党も訴えないことが不思議であるが、おそらく政治家にとっては自分の首が大変で考える余裕がないのであろう(同情するが、それで良いわけはない)。ちなみに綿貫氏も傾聴の価値はあるが、教育基本法や憲法の問題についてかなり右翼的なようでその点賛成しかねる。公共事業の民主化もシステマティックに考えなくてはその主張はなかなか通らないだろう。

きのうはたまたま、学生と数学の話をしつつ選挙速報を見ていた。「小さな政府」路線への圧倒的支持に対し、「成人したら学費は自分で払えといわれているが、学費もあがりそうだし、大学院までいけるだろうか」と心配していた。まったく正常な感覚である。日本育英会が改廃されて奨学金事業が縮小されたことをどれだけマスコミは報道しただろうか。みな自分に何がふりかかってくるかを想像しないまま催眠術にかかっていなかったろうか。それぞれの能力が発揮されるのでなく、生まれや運による勝ち組が得をする制度に急速に作りかえられつつあると思う。金持ちと貧乏とに所得が一度 2 極分化したら、それをとりもどすことは不可能に近いだろう。そこまで考えないと私は日々学生に接する顔を持てないでいる。このような状況を開くことは政治の責任ではないだろうか。

おそらくこのような議論をする際に重要なのは数字(金)のオーダー(ケタ)であるが、その数字をのらりくらりと反撃をかわすために悪用するようなリーダーは願い下げたい。

2005.8.24. 先日高校生に話した「仙台数学セミナー」の話の原稿をアップ: ココ (tex| dvi| ps) 。近代科学の原点である 2 体問題について、「ファインマンさん力学を語る」の内容を補充して 2 時間で話した。聴衆は東北一円の高校 1〜3 年生 12 名。なお、図は手書きだったので tex file からは抜けている。(ファイルの中の「条件 3」がファインマンに補充した部分。)

ちなみに衆議院選挙は議論が乱暴すぎてついていけない気分でいる。白紙委任で自民が勝ったら憲法はどうなるだろうか。

2005.7.24. いわゆる教職大学院構想というものについて。東大の教育学の方々が提唱したのが発端であったと思うが(小中学校の教員集団の中で指導的立場に立つべき人を養成するため、であったと思うが、その論は一理あるとは思う。)、その後中教審においても積極的に検討されているようである。ところが知人から聞くところによると(自分ではちゃんとフォローしていないが)、内容はかなり問題がある方向に向かっているらしい。すなわち、教員養成課程専門の大学院(教職大学院)を卒業しない限り、教員免許を与えない、という議論にむかっているという。理学部などでは教員免許はとれなくなるか、著しく困難になるのだ。そしてその教職大学院では、教科の専門知識を深めることよりも、教育実習などによる教え方の訓練と、生活指導のあり方などについて実学的に教えることを中心にするのだという。

これによれば、ただでさえ専門的知識に接することが難しい昨今の高校までのカリキュラムで学んだ人達のうち、理学部などの専門性を高める場を選択しなかった人々が、そのまま教えるべき内容については専門性を高めることなく、ひたすら「人間性」を切磋琢磨して教員になり、それ以外の教員はいずれ存在しないということになろう。(政治家が好きそうな方向への偏向がなされつつああると思うのはうがちすぎだろうか。)結果として、人間性は好ましくとも、教科内容を教えるには適当でない人々が教壇に立つことにならないかと思う。それはかえって学校の存在理由である知識の伝達という意味を失わせ偽善的なものとなし、よって荒れた学校はもっと荒れるのではないか。少なくとも、公教育の希薄化と教育産業の活発化、そして教育の機会不平等に貢献するのは間違いなく、あまり言いたくはないが日本の知的弱体化も進むと思う。我が国を代表して議論されているはずの中教審においてなぜこのような愚かな方向に向かっているかと思うと、憂慮と絶望感にたえない。(この件に限らないが、審議会のメンバーとともに、事務局で作文を実質的に担っているであろう文部官僚には重大な責任があると思う。)

2005.6.22. 昨夜生協の食堂で化学の教授と夕食で一緒になった。いわく、高校で物理をとっていない学生が質問にきて、エネルギーの概念に大学で初めて接するようであり困ったとのこと。量子力学の質問に来た人だったが、量子力学以前にエネルギーを日常用語としてしか知らず、単位をもつ物理量であることを知らないことが判明したのだと言う。これは学生の責任とも言えない。(そもそも質問に来るのは熱心な人であることが多い。)高校によっては、物理は受験で点がとり難いなどの理由で開講せず(あるいは選択する学生が(少)なく)、それゆえに物理の先生が居ないところもあるように私は聞いたことがある。そう先生に伝えると、世も末だという話に自然となっていった。一方で公務員の削減話が報道されていたが、すでに日本の公務員は人口比で先進諸国の半分程度になっており、この上削減が進めばこのような教育分野にも今より更に深刻な影響が及ぶだろう(今でも維持できているとは思えない。もっとも我々が何を訴えたところで、政策責任者の側では「それでも質問に積極的に来るようになったのはゆとり教育の成果である」程度にあしらう程度のことであろうかと思う)。我々は文明の崩壊しつつある様子を目撃しているのかもしれない。

2005.6.15. 「線型代数」の正誤表を、お茶大の武部さんの指摘により update。 (2005.6.22: 訂正箇所に関連した直しが一ヶ所あったのを追加。)

2005.5.16. 拙著「線型代数」(日本評論社刊)が 5 月 20 日付けで増刷され、手元に一冊が届く。お茶大の武部さんなどの指摘をうけ、この機会に正誤表を少し update。

2005.5.12. TBS 系に山崎拓氏が出演。中国との友好関係についての展望を語った。 インタビュアーの筑紫氏も手練の人だけあって含蓄のある話ではあった。とはいえ、かつての左翼的平和主義からいえば腰が引けていたであろう。独自の対中パイプのある人らしく、山崎氏の物言いは慎重かつ現実的だったといえようか。中国側も靖国参拝はなかなかやめられない問題と認識している様子さえ伺わせていた。これは何を意味するか?深読みのしすぎかもしれないが、戦犯裁判にインド代表が示した欧米対アジアの歴史のありようについてアジア諸国との共闘を装って友好の基礎とするのであれば、世界に新たな東西の対立軸を産むものであり、よろしくないことであると私は思う。現在の外交問題は、そのようなことのない形で二国間あるいは関係国間で調整すべきことがらであり、ナショナリスティックに昇華することは歓迎すべきでない。

2005.5.7. 都立大学から本学に移られた山下教授の発言を読む。大学の将来に悲観するだけでなく、改憲論議の報道などにも無力を感じることばかりのこのごろだが、力づけられた。

ついでに、東北大学の総長選挙廃止に反対する署名ページがあったのでリンクしておく。

2005.4.13. 中国との問題。相手側が折れるのにまかせる形で我が国の公式の立場が(またも、なんとか)通りそうだが、身近に留学生がいたりする身としても、やはり日本の与党の立場が視野の狭い愛国心に傾いていることと無縁でない問題だと思う。なぜ戦没者慰霊施設を作れず靖国かといえば、与党にとって靖国は選挙対策になるからであろう。靖国をはじめとする(かどうかわからないが)神道関係者は、狭い愛国の概念に自己の存在理由を認められることで安穏とすることなく、(かえりみればインドに由来するとまでいわれる鳥居の履歴にまでも思いを馳せて)より広い視野で平和と安定を願う活動を行うべきであると思う。その上での自民党と神道の結託ならばまだ許される関係となるのではないか。

今日は教室会議があった。 奨学金の改組のため、これまで「返済免除職」(教員、研究者等)に就けば返済が免除されていた制度がなくなり、かわりに「成績によって」各部局で判断すべしとなったそうであった。 部局ごとにどんな価値基準がありうるかで多少の議論になったが、時間もなく今後の担当者の議論に委ねられた。教員の業績であっても、 一編の論文の価値の重みはにわかには優劣をつけにくいし、分野が違えばなおさらのことである。「免除」などの特典の枠が縮小されている中では、実際にはまじめな時間を費すに値しない問題となる(0人の枠について議論してもしかたない!)ことも考えられる。そこまで苦しむ学生が出るのはやはり定員充足率のせいではないかとも思うのだが(これで予算配分を決めるならば、歯学部など特殊な部局以外は大いに不利益となることは、半ば笑い話として法人化が俎上にあがった当初から問題として認識されていたはずである)、この点は昨日書いたように皆諦めの境地を得ざるをえない事柄のようである。--- 政策決定の人にある人がこれを御覧であれば、以上のことからぜひ想像力を働かせて読み、現場の理性を信じる方向へ制度を変える努力をしてほしいと切に思う。

2005.4.12 新年度となり、都立大学の存続を否定した都知事により首都大学(首大)が設置されたが、その報道ぶりは低調であった。マスコミが批判力を減退させている一例と思う。同様に急進的な改革にさらされる横浜市立大学の今後も心配である。上からの改革の一方で、現場の教員には(私も含め)「無意味な制度改革にはつきあいたくないが、何を言っても聞いてもらえない。言うだけ無駄骨だ」という諦感が広まっているように思う。総合科学技術会議などで色々打ち上げるのは良いが、高い授業料による教育の機会不均等化など、地道なところに目を向けていただきたいと思う。

やはり年度がわりに際し、辻下氏が北大時代から尽力し発行されていた、大学人の立場からの Mailing List ac-net letter が休刊された。これまで辻下さんが独力で築いたネットワークの力には我々も勇気づけられた。辻下さん、これまで御苦労さまでした。

2005.4.5. ヨハネ・パウロ 2 世の逝去は信者ではないが悲しみであった。以下は関連しそうな話:数日前、年度末に東京であった学会で久々に会ったイギリスの同業者と政治談議をした。ブレアはまた勝つか、と聞くと、勝つだろうと言っていた。逆に日本の政治状況を聞かれる。日本も 2 政党化しているようだがといわれ、数年前に政権交代論者が小選挙区への転換を訴えそのようになってから、急速にそうなったと答える。(社民党の危機も一義的にはそれゆえであろう。)英国人いわく、イギリスでは 2 政党政治がもう 400 年以上(!)続いている。これを何とか変えようとするが仲々変えられない、と嘆いた。政治こそセカンド・オピニオンどころか第 3、 第 4 と多様な意見の存在を認められなくては、遠からず世襲的装置になるということであろう。多政党の価値観を存続させるには、早期に中選挙区に戻す必要があるのではないか(あるいは完全比例代表制にすべきかも)。ついでに書けば、NHK の番組「日本の、これから」の初回も評価が難しい。終了時の「おじさまたちのしゃべり場でした」という参加者のボードが一番正しい評価だったのではと思う。「識者」を前段にすえて結局はガス抜きでしかない番組にするのでなく、視聴者の政策判断をすでに流布しているステレオタイプから自由にし、より(社会経済学的)理論的裏付けによるものへと導くものでなくてはならないように思う。

(ここまで書いたところで NHK の朝のニュース曰く「大学の入試ミスが 3 年前比 1.5 倍で最高」。文科省のコメントとして、今後大学を適切に指導していく、とも。しかし実は指導されるべきは文科省なのではないか。国公立大学を存立の不安におとしめる独立行政法人化に道を開き、かつ予算編成において基盤的経費を易々と競争的経費につけかえたのではなかったか。そのような中で、ボランティアに近い入試業務が従来どおりに各大学でまかなえると思うのは無いものねだりであろうと思う。参考として、最近出版された「こんな入試になぜできない」(日本評論社刊;このようなタイトルではあるが、日本数学会教育委員会主催シンポジウムの記録である)が関係者には参考になると思う。とくに、センター試験について、平均点 が 60 点であるべしとの一般施策から出題に制約が課される経緯は私も知り得ないことがらであった。

ここまで書いたところで、毎度気になることを一つ:二十四節気の清明だというのは良いが、そもそも二十四節気とはペキンの旧暦であり、2 重に日本にあわないことを知らしめなくてはいけないのではないか?>日本気象協会の方々

2005.3.21. 休みで久し振りに朝のテレビを見る。ライブドア対テレビメディアの構図を(視聴率ゆえか)とりあげるが、裏の経営+プロデューサーの頭には「面白くやりたいが、ライブドアはやっぱり困る」ではないかなと感じる。個人情報保護法案についてもそうだが、それよりもっと重要な問題もあるのではないか。大学問題ともいわないが、憲法問題など特に。NHK を論ずる資格があるメデイアはあるのか?視聴者はそれほどバカでないと思う。「公共」と「プライバシー」の最終形態が、ネットアクセス権と生得の生体情報管理権(それすら自明でないが)におちついていったりしたらかなり悲惨である。(枠組によらず、自由な発言の保証が必要であろうとの趣旨。フジサンケイも他山^2 の石とすべきである。)

2005.3.18. 今週放映されていた「ひも理論」の NHK BS 番組(BS海外ドキュメンタリー、The Elegant Universe)のビデオを見る:知っている顔の他、これまで名前しか知らなかった物理学者の素顔なども面白く思い(こういうものを見て面白がっていてもいけないのだが)、まあまあよくできた番組だと思った。(日本でも南部先生や江口先生、大栗氏などを登場させて、同様の番組を作れば作れるはずだが。)

2005.2.25. 国立大学 2 次試験はじまる。昼前の TBS 系のテレビニュースをたまたま見たところ、教員養成系の倍率が前年比で 11 パーセント余りと、大幅に減っていることが報じられていた。(あまり報じられないかもしれないので、以下記憶に基いて書く。多少不正確なところはあるかもしれない。)

予備校関係者の解説曰く、「学校や大学が今後さまざまな困難に直面するだろうことを漠然と不安に思い、学生が敬遠したのではないか」。その通りだろうと思う。 ニュースではこれから教師が大量に定年退職を迎える中、教師の質を保つことが急務になっているとの指摘。

ぶらさがりインタビューを受けた中山文科大臣は「もっと多くの優秀な若者に受験してほしい」というように述べていたが、これまで定見のないままに文科省とそろって教育現場に口を出してきた与党は責任を自覚すべきだと思う。教育基本法の改正論議がなされているが、「教育行政は教育環境の整備に徹して、教育現場に不当な干渉をしてはならない」旨の現行第 10 条をはじめ、全くこのまま変更の必要はないと思う。これまでその趣旨が生かされなかったことこそ問題であるだろう。 (たとえば東京教育大学が廃校とされたことは大きな影響を今に残していると思う:朝永振一郎を擁しつつ、各地で教員集団の核となるべき人材を養成していた大学ではなかっただろうか。最近の山梨県での選挙運動問題についても、日教組つぶしの再来とも見られるように、私には思われる。)

2005.2.16. 今週の月曜(14 日)、当地恒例の「予餞会」(卒業がきまった学生と教員が飲食をともにする会)があった。先日の 学費値上反対への意見広告について、丁度良い機会なのでカンパを募ってみる:その場で 10 口以上が集まり嬉しくなる。その際説明のため、先日の意見広告を A4 片面に縮小し、もう片面にこの文章をつけてチラシとした。(tex版)国会での予算組み替え議論に反映されないものかと、切に思う。

2005.2.13 先日聞いた話:最近話題の、東北大学での学長選挙廃止の決定について。この決定を主導したのは、文部省から天下って工学部の教授となり、労働協約策定などで活躍している K 氏とのこと。さる教授から聞いたが、「決定」の内容は研究科長レベルですら聞いていた話とは違う形であった由(ひどい話だと思う)。職員組合による反対署名が現在進行中。

今後予想される憲法や教育基本法論議も、似たように一般人の思いとは関係なく決まっていくのではないかと思い、絶望的な気分になる。その影響は、名前が(一過性の流行を追ったにすぎない)「南セントレア市」になるような程度ではすまないだろう。(ついでながら、「アルプス」というのも如何かと思う。本来はイタリアの北に位置する山地の名称であるとすれば、植民地のようなネーミングではある。)

2005.1.26. 国会開幕と予算審議にあわせ、国立大学学費の値上げ論議はじまる。ただし国会の方は、マスコミで見る限りパワーゲーム以上にならず、内容までマスコミの報道の詳細にわたることは残念ながらまだない。学費値上げについては、私が学生時代であった中曽根内閣当時に、授業料と入学料が毎年交代で倍々値上げされたことが忘れられない。この時代に「私大と国公立大の負担公平化」が述べられ実現されたのであったし、学生運動が終息し一時代を経た我々は唯々と従ったのであった。(5 年以上前は 70 年安保の余韻で違ったと思うが、もはやガンダムの時代であり、安保問題は大時代過去という気分があった。)

さて今日であるが、「我が」東北大学では「学長を選挙で選ばない」という制度を採用することとなった(新聞報道によればそうである)。民主的かつ開示的な制度の廃止がこの数年日本を誤らせた、その系譜に連なるものでないとはいえない。東北大学に在籍するものとして忸怩たるものがあるが、一講師の立場としては(主任教授に意見書をしたためる以外)いかんともしがたいものであった。

学長職が文部省の天下りとなることを許す結果も考えられ、それ位ならば工学部や医学部が学長の母体となる現在の方がまだ良いと思われる。他大学へも波及しうることを考えると、非常に危険な選択をしたものであると思う。任期制の一律導入なども十分予想されるのではないだろうか。教育基本法や憲法の改悪なども予想される中、大学から強く反対の発言をすることも勇気が必要になるかもしれない。

少し話が飛ぶが、大学をとりまく環境として無視できない、この数年の日本における政治プロセスの変化にとって、小選挙区制の導入は大きかっただろう。これによって、中小政党は集票が困難となり、政権闘争のための集団以上の価値をわれわれは国会勢力として持てずにいる。国会は結果として乱暴な議論による勢力獲得合戦になってしまっているように思う。(ちなみに諸外国の選挙報道は示唆に富む。ロシアやアメリカ諸州での選挙の模様は注意して見るべきであろう。日本におけるよりはるかに大きな用紙に書き込む彼らは、地域の問題に、あるいは国民的投票に、参加しているのである。我々とていろいろ言いたいことはあるのだが、それが何故(わざわざ皆が投票所まで行くその日に)用紙の選択肢としてないのか。せめて(憲法改正のために制定されるといわれる)国民投票の法制においては、このような前時代的な点がないよう、個別の問題ごとへの投票を可能とすべきである。

小選挙区制が少数政党とそれが代表する価値の存続をあやぶむものとして機能し、結果として国民の死に票増加と発言力低下を招いているのではないかと(未来の有権者である大学生を真近に見つつ)思っている。

このようなPR優位というべき(政治)状況は、現在の不況の主要因である日銀の政策決定をはじめ、他にも多々あるように思う。

2005.1.13 数日前から報道された、日本の戦争責任についての NHK の 4 年前の番組への政治圧力の有無について、 NHK(は14 日になってから見たが)およびテレ朝、TBS 系が少なくとも報道。 特にテレ朝系「報道ステーション」では疑惑渦中の安倍幹事長が出演。冗長というよりもムキになっての反論という感じで、心なし声が上ずっていたように思う。 これより先に NHK の担当プロデューサーが会見し、身内が路頭に迷うことを案じ 4 年間迷ったが、真実を訴える責任を感じ たと述べていた(勇気を讃えたい!)。現会長になってから政治への自己検閲的姿勢(?)が目立つとも述べていた。 予算を握られて上下関係が生じやすくはあっても、経営委員会をおくことで政治と一定の距離を保つというのが NHK の制度だったはずである。その理念を政治家と NHK 幹部とがともに共有することは難しいのかもしれないが、 そうあらねばこの規模の社会をやっていく為に日々人々が払っているデメリットを補う メリット(小林秀雄は批判したが「社会の改良」の精神)がないだろう。 為政者の善意に無条件で期待できるほど世の中は単純でなく、過去から未来にかけて日々批判すべきは批判されなく てはならないであろう。また報道自身についても、戦争責任問題以外にも、報道主体そのものによる「政治的配慮」がある ように思われる:やはり正当な批判は受けるべきであろう。 (2005.1.18, 参考)

(同様の思いで、 「明治期の任命制の知事が廃されて今日に至ったように、大学においても選挙はあるべき姿」という趣旨の文を昨日書いた: 先日報じられた東北大学での総長選挙の廃止案についての意見が(各構成員に)求められた機会に。)

2004.12.31 国立大学が法人化された年の大晦日。年末のある機会に、次期主任が「来年度(から)の方がよほど大変だろうと思われるので、覚悟されよ」という趣旨の発言をされていた。その通り、すでに文科省の指導による授業料値上げや、東北大学においては学長選挙の廃止(!)などが語られている。学長選挙の廃止案については、構成員への周知はまったくなく、私は買物に出かけた街中の蕎麦屋で新聞を読む迄知らなかった。いくら医学部工学部以外は票読みに加われない規模であるとはいえ、他大学でも「私立大学的」(というと語弊があろうけれど)な世襲様支配に道を開く記念碑的第一歩になりかねないように思う。この年末にはその他、複数の学力調査の結果の発表と危機感を共有する理数系 34 学会の提言(浪川元数学会会長まとめ)や、過激な首長のトップダウン改革の典型的破綻といえそうな「首都大学東京」と化す現・東京都立大学への懸念(挽歌とさえいえよう)が報じられている:参照. ... 来年度(以降)、さらに地方を中心として教育予算の縮小が強く予想される中、また天変地異的災害の頻発する中、来年度こそは明るい光があるようにと願う。

2004.12.6 あるメーリングリストの情報にいわく、 New Castle 大学の物理学部が閉鎖され、今後は...産業界からの寄付が見込める応用物理に集中するそうですとのこと。 情報提供者は「ひとごとでないので」と書いていたが、すでに日本でも数学科などは(地方大学でなくても)組織改変が進んでおり、まったくひとごとでない。

2004.11.30 (久しぶりに書く)。いわゆる「三位一体改革」の概要まとまる。まだ紆余曲折がありそうだが、義務教育予算について、文科省は結局押し切られた形で次年度以降の削減へも含みをもつ形で削減を認めた模様(来年度は 8500 億円)。これをどう見るべきか。浅野宮城県知事などは失望と言っている一方、ノーベル賞受賞者を含め教育関係者からは反対の声が強かったように思う。

浅野氏は中央の権限を減らしつつ地方に予算を持ってくるのが主眼なのであろう。しかし地方に降りたとたんに地方ごとに教育意外への転用が行われるとすれば、教育関係者としては無視はできない。日本の教育予算が諸外国と比して半分以下(GDP比)というのは「良く」知られた話であり、ここに(欧州では学校の正課とされていないと聞く)体育なども押し込んでいるからなおさらである。

ゆとり教育的な時間数の削減などは地方の裁量で改良されうるかもしれない(私もそう考えたことがある)。しかし現在の危機的財政状況の下での大規模な改革には危惧を覚える。国立大学も今年度法人化されたが、それに伴って起ここったのは次年度の非常勤講師や集中講義の講師の確保が困難になるなどの、およそ自由とは反対の事柄であった。

浅野氏の「地方分権こそバラ色」の見通しも、そのような財務省論理の枠内で霞んでしまっていると思う。かりに地方(知事会)案でそのまま通っていたとしても、数年にかけて財務省は強固な態度で予算の削減を迫ってきたのではないか。先日出張途中の新幹線内で買った wedge によれば、全国知事会等では、今後少子化が進むことでと子供の数に比例して減少する教育予算を守るよりも、現在の子供数をデフォルトとして「ぶんどる」ことができれば地方にはその方が得、という計算があったとのことである:そこまで財務省は甘くなく、子供の減少に応じてカットを迫ってくるに違いないと思う。また地方によっては、浅野氏ほど賢明でない首長が(長期にわたり)選ばれることもあるであろう。

諸外国が基礎教育に力を入れている現在、これで良いのか。

新聞では教師数対生徒数比の問題としてとりあげていたものもあったが、問題はより深刻である。 昨夜の刈谷剛彦氏の NHK「視点・論点」によれば、今後少子化の傾向に反して、定年を迎える教員の退職金や、新規採用(それも加増が求められるであろうが、現在と同じ 40 人学級をベースとしていた)のコストのため、現在の各年度の予算に比して 3 〜 4 千億の増加が見こまれるとのことであった。そしてこの数字を基にしての議論が、この間まったく行われていないということが一番の問題である。

財源が主として地方の負担に委ねられることで(教員の給与が引き下げられ、たとえばパート教師が増えることによって、教師を生業と考えることが困難となる地方が増えて)、地方において優秀な教師を確保しうるかどうかという問題も起きるであろう。

小泉改革の共通問題であるが、かけ声は勇ましいものの、内容を「精査」すると御粗末ばかりという内容になっていると思う。そして、そもそも日銀の極端に緊縮的金融政策がデフレを招き税収を低迷させたのがこのような結果になっているように思う。マクロ経済の判断ミスを地方に転嫁すべきでないのは、日本という国を現在の形でやっていくのであれば当然のことであろう。それをこともあろうに、地方により多くの負担を求めながら、教育基本法の改正までも政治日程にいれつつ「国のために死ねる」若者の教育を語らう政府与党は、言ってみれば「やらずぶったくり」の極悪非道にさえ(私には)映る。地方も目を覚ますべきであると思う。(中央政府の意思決定の問題について、私は浅野氏に教わるべきことがあるかもしれないが、それでも危惧を禁じない。浅野氏はエリート教育の必要を考えている人であるらしいが、現在は底上げこそ必要のような状勢でもある。教育の切り下げは親世代への不安として少子化もより煽ると思う。)

# 民主党よ、補完機能を果たしたまえ。このような時のために大きくなったのでないとすれば、貴党の存在価値は何か。

## 文科省大臣よ。いずれ消えゆく省庁であるという御認識か。あるいは消えないとしても、軍国を世にはばからせるための機関としてか。貴下が語ったという「慰安婦が消えて良かった」などは、アジアの中の日本の孤立を深め、上記に記した教育の低下と相俟って、日本の現在の国際的地位を次世代に引きつがせないための布石に他ならない効果を与えてはいないか。それはあなたの真実の愛国心といえるのか。

ともに猛省していただきたいと思う。

2004.9.15 アカデミア e-ネットワーク レター参照)。以下は私見:杞憂であれば良いのだが。一般財源化された場合は総務省の所管になるというが、総務省といえば戦前の内務省である。地方分権どころか、教育予算が実質的には国のプロパガンダに利用されることはないであろうか。また、総務省が現在所管しているところの、警察関係や郵政関係の天下りとして小中学校が利用され、天下る口実として道徳教育や社会教育の強化が行われることはないであろうか。戦前の思想統制も、当初はその方面の検事の仕事を作るためであったという話もあったように思う(「思想検事」)。もしも知事会の方針で補助金の制度改革が行われるとしても、教育基本法第 10 条(政府による教育への不当介入の戒め)に基いた法的担保を求める議論が必要あろう。そもそも総務省が文部省とともに学校をしばるパワーとして登場する構図は、国立大学が財務省や行革本部などからもしばられる構図と同じである。文部科学省の影響力が縮小されるという希望的観測(??)もありうるが、こちらの方が長期的には深刻にならないか。 文科省としても、その存亡を賭けて対策を考えていることと思うが、これを機にこれまでの政策への真摯な反省を求めたい。

2004.8.19 全国知事会が、地方への財源委譲とセットの補助金削減案の中に、義務教育の教員給与の国庫負担分の削減を盛り込む方針を決定。 異例の採決による決定とのことだが、もともと「首相から投げられたボールを責任をもって投げ返す」と称しての議論であった。日頃独走が目立つ 東京都知事が意外?に地方の教育水準の維持に配慮し削減に反対する発言をしたことは注目される。それにしても、地方自ら教育の機能を放り出すことになりかねない決定を したことで、今後の日本の教育はますます「私(わたくし)事化」するのではないかと心配である。私学の隆盛が地方の中学にまで及べば、再び公教育を全国的な ものとして水準を保って行うことは不可能になるのではないか。この日早川解説委員が担当した「あすを読む」(NHK 総合)においては、こうした動きを牽制すべく 河村文部科学大臣が先日発表した「6・3 制見直し」について論じられたが、現状を論ずるにはポイントが外れていなかっただろうか。 そもそも首相が「3 兆円の削減と委譲」なるスローガンを初めに掲げたため、それに乗ってしまった(公共事業を削れない)知事達が教育を削る方向でまとまるしかなかったと見られても 知事会は反論が難しいのではないか。今後は知事をチェックすべき地方議会がどう反応するかにも注目すべきだが、発言力をもたない(これからの)子供世代が何より可哀想である。(国民の 不安を招くことで、出生率もより低下するであろうと思う。こんな決定を生む背景の不景気の原因が日銀の経済運営にあるとすれば、彼らの責任もまた問われるべきである。また この他にも、マスコミが報道すべきオリンピック以外の話題がないだろうかとも思ってしまう。)

2004.7.26 ACNET Letter 145:東京都が君が代を歌うことを強制する趣旨で、歌うことを拒否する教員に「再発防止研修」を課す旨の通達を出したことを知る。内心の自由は教育の根本をなす原理であると思う。それを東京都教育委員会が率先して犯すことは見るに耐えない。都の教育委員会には政治的に任用された民間の方々が複数おられるが、それらの方々は自身の良心を賭し、この処分的研修の可否について考え議論すべきであろう。単なる名誉職と考えておられるならばこの機会に辞任されることを含め検討すべき重責を、教育委員会の方々が担っていると思う。 (ついでのリンク:1(9 条の会関連) 2(検閲関連))

2004.7.8 静岡県議会で、 「教育基本法の早期改正を求める意見書」の採択が提案されている由。 反対の要請文を深夜に 3 時間かけて書いて fax。 (pdf版)

2004.7.6 二年間で都立 4 大学から教員約 100 人が流出Academia e-Network letter より)

2004.7.3. 大学関係者にとって、横浜市大 (参考) および都立大学(参考 1,参考 2) の改革論議はひとごとでない災厄である。いづれも近視眼的な発想で理性を圧殺 するところが特徴であり、小泉政権の性格を間接的に反映しているとも いえよう。 おそらくは小泉政権の意向による改革で、「学者の国会」 学術会議もやはり (あまり注目はされないが)現在存亡の危機に晒されているように思う。 国会(参議院文教科学委員会、2004.4.6) での有馬氏や林氏の発言は、これまで日本の学問の健全な発展に一定の貢献をし てきた学術会議を評価するとともに、改正後の体制に対し根本的な疑問を呈している。 総合科学技術会議とのバランスの問題をはじめ、学術会議の大幅改変(いわゆる研連の廃止 など)に対し、学術会議のこれまではたしてきたボトムアップ的な役割の重要性 を強調しつつ、現場の意見を反映させる選挙制度の復活などにも言及された。 今後の議論に注目したい。 見切り発車的な「改革」でオーバードクター問題なども深刻化する中、院生も含む若 手の意見を真摯に受けとめることが可能な仕組が必要であると私も思う。一方 (悪い冗談のような話だが)国公私立を問わず、大学はどこも改革で浮足だってお り、まともに議論に加われる状況でない。政治主導で「日本版ルイセンコ生物学」 の再来を招く体制にならなければ良いが、と心配する。

参考: 京大総長・同志社大学長・立命館大総長連名の要望書「高等教育の充実に向けて」 (文部科学大臣・財務大臣・内閣府特命担当大臣・総務大臣宛、6 月 3 日付)

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